5-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (後)
「……!」
羽哉は反射的にからだを反らし、両手で口を塞いだ。驚きはそのあとからやってきた。感覚と脳による理解との時差。「しー!」。目をかっと大きく開いた♨は慌てて人差し指を自らの唇に押し当て、反対側の手を床に向けて上下させ、落ち着けとジェスチャーする。
目を素早く左右させて周囲のようすをうかがった羽哉は過剰すぎる反応を詫び――反応しなきゃしないで詫びなければならないのが人間世界のバランスの悪いところだ――反らしたからだを再び元に戻す。再び並んだ二人は一旦止まった歩を進める。
「海に落ちるって……そういうのってもっとこう……ニュースとかになりません?」
「どうでしょう。ニュースって結局、作られた印象でしかないですから」
「だから、〝ほんとうのことはニュースにならない〟?」
「もうずっとそうじゃないですか。僕が子どものころからずっとそんなですよ。当時は知らなかったけど。じゃなくて。とりあえず今は表沙汰にはしないんじゃないですかね。航行に支障がでるかもしれないしい」
いや、そういう話ではない気がする。根本の部分がすぐに感情論や憶測へ流れて行くのも人間世界のバランスの悪いところだ。羽哉は思う。
「……見た人がいるってこと?」
「は?」
「……その、落ちるとこ? を、見た人が……」
「えー。それはちょっと僕もわかんないんですけどお。あ、おはようございまーす」
同じ制服を着た人の群れが二人を追い越していき、♨は磁気双極子が整列する素早さでそちら側へ吸い寄せられ、群れに加わり、羽哉からはさっと離れた。
通路沿いの壁に並ぶ填め込み窓の外を見る。昨日とはうってかわって、雲が空の端へ溜まっていくように流れている。足元の揺れを感じるたびに、波が高いのだろうということは映像としてわかるけど、それがどういう状態なのか羽哉にはよくわからない。ようするに、波と羽哉の生活が切り離されているせいで、そこに想像力が及ばないし、想像力によって見出すこともできない。そういうふうに肉体ができあがっていて、無いものは無いのだから、無いのだ。
その後も羽哉は同様の噂を、同じ配置になったスタッフなどから複数回聞いた。ただすれ違うだけの一瞬を狙って「ねえ聞いた?」と噂話を持ち出すスタッフも少なくなかった。閉じられた空間の中にあっては、誰もが刺激に飢えているのだ。だから『スタッフが海に落ちた』というあまりに刺激的な噂は、スタッフ間であっという間に共有率一位を獲得するローカルトレンドになった。
時間の経過とともに、もしくは噂が跨ぐ人間の数の増加と共に、噂は少しずつヴァリエーションを増やす。最後に羽哉が聞いたヴァージョンでは、『あるスタッフがこのツアーに関する非難的な発言をしたために、不興を買い、密漁者を装い横付けにしたボートから乗り込んだ暗殺者によって、暗い海の中へ投げ落とされた』というものだった。
「どうして海に落とされたかって? そりゃ、見つかりにくいからでしょう。一人暮らしだっていうし」
噂を嬉々として話すスタッフたちと羽哉は終業後、船内を大きく回り道しながら歩いていた。たまたま今日、同じ配置になっただけで、噂話に花を咲かせているスタッフたちとは今まで交流の機会がなかった。割り当てられたベッドのある部屋が違うし、彼ら彼女らは特段にコミュニケーション能力が高く、さっさとお友達の輪をつくってグループになってしまうような人種だった。そして彼ら彼女らはつねに周囲を偏狭な視点で見つめ、そこから噂やゴシップを生み出して楽しむ人種でもあった。
羽哉はボランティアスタッフたちのひとりに右腕をしっかりホールドするように組まれ、一緒に歩いている。船が揺れて危ないから、みんな腕を組んで歩きましょう、という一人の発案でこうなった。建前は自室に戻るために一緒に歩いているのだが、腕を組み合ったスタッフたちは身を寄せ合い、噂話をしながら広い船内をむだに何周もしている。
「どうして一人暮らしが関係あるの?」
「家族が同居してたら、帰って来ないって捜索願いを出すでしょ。でも一人暮らしの場合、そういうことする人がいないじゃない。ふつうなら勤務先に出勤してこないって騒ぎになって発覚するかもしれないけど、こういう環境じゃ難しいだろうし。……海の上っていう特殊な条件でもあるし」
腕を組み合ってひとつの団子状になって歩くボランティアスタッフのかたまりはしばらく無言のまま進む。通路には賑やかな声と音が溢れている。「海の上だからねえ……」。誰かが呟いて、そして誰もが黙る。
「徳を積んでなかったからこうなったんじゃないかしら」
ボランティアスタッフの一人が沈黙の中でゴムボールを転がすように言う。イニシアティブのような一言でボランティアスタッフの会話は再び活性化する。「それはある」。
「だってそうとしか考えられなくない? 徳を積んでいれば、こういうことは起こらないのよ。不幸も不運も寄せ付けない体質になるし。あたしたちみんなそうでしょ? だからこうして無事に毎日過ごしてるんじゃない」
「そうだね。無事に過ごせてるのもそうだし、こうして良い同僚たちに恵まれたし」
「それ」
「そういえば――さんは……ボランティアスタッフの。このあいだ聞いたけど、このツアーが終わったら制服が替わるんだって言ってた。昇格するんだって。もともとは政策学者で官僚だったらしくて、で、プロゴルファーで、元パイロットでもあるらしくて」
「わざわざ経歴を隠してたの?」
「そういう人は多いらしいよ。みんなうさみちゃんシティに移住する前の経歴を偽ってるのかしら。移住後に実は……ってなる人がけっこう多いんだって」
「あとは、うさみちゃんと対話してるうちに自分の才能が開花する人もたくさんいるし」
「ああ、わかる。私の知人もそう。移住する前までは食品製造の会社員だったんだけど、うさみちゃんと一緒に暮らすようになってから絵画のバイヤーを名乗るようになったの。そういう才能があったのね」
ボランティアスタッフはお互いの顔を見合わせながら、称え合うように微笑みを投げかける。その無言のやりとりの中に、みな同一の情報が含まれていると羽哉は思う。『あなたはだいじょうぶ』。『わたしもだいじょうぶ』。『根拠ないけどだいじょうぶって言っとけばだいじょうぶ』。
「ボートから飛び乗った誰かが海に落としたとか、連れ去ったとか。どれが本当かわからないけど、ボートが近づいてきても私たちにはわからないわよね。だからこわいわ」
「だからこそ、徳を積んでおくんでしょう。そうすれば救われるから」
「そう。ここにはうさみちゃん印のお水が売ってないから、みんなどうやって徳を積んでる? ツアー中。私は……」
「私はキャップちゃんをこのあいだ買ったの。だからそれで計ってる」
「ええ! すごい! 持ってきたの?」
「いいな、欲しいと思ってたんだ。羨ましい」
スタッフたちが小声でおしゃべりしながら歩いているのを、羽哉は腕をホールドされたまま、ただ黙って従っている。噂を話す者たちは共犯的連帯を求める。羽哉が現在強いられているのもその連帯によるものだ。噂を知っている者に課せられる連帯。それは責任に見た目が似ているし誰もが同じだと思い込んでいる。鰭脚類における見分けづらさと酷似している。
横付けされたボートからフェリーに飛び乗ることが可能かどうか羽哉にはわからないが、少なくとも、走っている電車や自動車に掴まることすら無理だ。
「でも、徳を積んでなかったかどうかは、わからないですよね」
そこでボランティアスタッフ同士の『だいじょうぶのだいじょうぶ』の無言の確かめ合いのようなものが止まった。空気が一瞬で変わったことによって、羽哉は自分の放った失言にようやく気づく。喉を通った言葉はかたちを残さないから取り消すこともできない。
この質問によって、羽哉の立場は『徳を積むことに否定的な人間』というラベルがくっついてしまうかもしれない、と瞬時に悟った。同時に、団子状になって歩くスタッフたちの一人から低い声が上がる。「え、あなたは徳を積んでいないの?」。疑いと、隠した嘲笑の声。
「いえ、もちろん私も徳を積んでますけど、あの、ボランティアスタッフで徳を積まない人なんて居ないんじゃないかって思って、……」
「とはいえさ。この船があした港に着いたらツアーも終わりだから。何も起こらないと思うけどさ、みなさんご安全に」
「ご安全にー」
群れて歩いていた人々は声を揃えて言うと、壁に当たった水風船が割れて中身がほうぼうに散らばるのと同じように、ばっ、とばらけて全員が全く違う方向へと歩き出した。解散。羽哉の腕をホールドしていた誰かの腕も、もうそこにはなくて感触の記憶も温もりすらも残っていない。まるで羽哉という人間が、最初から存在していなかったように感じる。
さっきまで一緒にいたボランティアスタッフたちのルールを知らなかった羽哉だけが通路の真ん中で立ち尽くしていた。通路にはたくさんの乗船客が行き来していて、羽哉は通路の真ん中に立つボラードと化していた。
少なくとも羽哉が生きる世界の中には、あらゆるものに一つだけのゴールがあって、そのゴールが人間たちの目指す場所だ。うまれたときからそういうふうに世界がデザインされている。人間個人は、設定されたゴールに渡されたテープを誰よりたくさん切ることこそが求められている。
そこから逸脱しようと考える者はいない。誰だって、誰より優れていたいからだ。それは人間が生きるための、〈私〉を保存するための力の一部になっている。羽哉と一緒にツアースタッフとして配属された人々のあいだにも、ツアーという短いあいだでありながら、すでに人間と人間との〈差〉を生み出す概念は存在している。それはすべて個人から排出された気分でつくられたものだ。『私はみんなと協調しながら日々を暮らしています。みんななかよし。みんな平等。誰よりもみんなを受け入れる優しさをもっています』。『私はこの人よりもこういった考えかたができる』。
羽哉は再び通路に敷かれた絨毯を踏みしめながらゆっくりと歩き出した。この通路にも、吹き抜けから見える別フロアにも、梅小山っぽい人間はいない。というか、羽哉と同じ制服を着た人は一人も居ない。
空っぽの部屋へと羽哉は歩いて行く。明日のことを考えながら。明日の昼には、参加者とはべつのバスに乗り込んで




