4-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (後)
さまでーす」
凛斗が宿泊する、またはイベントが行われる船室とは別の、下の下のフロアにある二段ベッド型の半個室の相部屋でスタッフたちは過ごす。さっきまで行われていたイベントの参加者と同じくらい脳の疲労を感じながら、羽哉は二段ベッドの下段へと戻った。昼夜問わずにイベントが行われるのでスタッフはシフト勤務をするが、昨日、急遽シフトが変更になったという通達があったばかりで、羽哉をはじめ多くのスタッフは予定していたより長く働かなければならなくなった。理由は説明されなかったが、明らかにスタッフの総数が減ったことは誰にでもわかった。
羽哉が部屋――一畳ほどの広さの壁に囲まれたベッド――に戻ると、数十センチほどの通路を挟んだ〝隣室〟の梅小山がイヤホンを片方だけ外して声をかけてきた。
「お疲れ様です。まじで疲れた。てか眠い」
羽哉はそう返しながら、人の気配を感じない上の段のベッドをちらっと見た。そして人差し指を上に向け、「いないの?」と梅小山に向かって口をぱくぱくさせて無言で聞く。梅小山はなにか言いたいのをこらえているふうの顔をして頷き、手招きした。近寄ると酒のにおいがする。いつものように。
「さっき、雨町が来てさ。連れてったの。なんか小声で言っててさ。うちカーテン閉めてたんだけど、ちょっと聞こえちゃって。しばらく戻ってこないんじゃない。事情聞きたいみたいなこと言ってたから」
「事情って。なんかしたの?」
そう言って再び上段のベッドを視線だけで見遣り、羽哉は続ける。「え、まって二人とも?」。梅小山はすっぱいものを食べたときのように目と鼻と口のまわりをくしゃっとさせて――彼女はしょっちゅうこういう顔をすることがあるが、癖か、なにかの気分の表れなのかもしれない――興奮したように何度も頷く。
「たぶん、……たぶんね。これ、噂で聞いただけだからほんとかわかんないけど、ツアーの参加者相手に詐欺っぽいことしたらしいよ。前もあったじゃんそういうの。前のときは除霊とか言ってレイ」
言葉の途中で梅小山は急に胸のあたりを押さえて、上半身をかがめた。羽哉ははっとして、背中をさすってやる。「……ツアーのお客さんが襲われたやつね。覚えてる。へんなこと言わせちゃってごめんね、思い出させちゃって」。そう言いながらゆっくりと背中を上下にさすると、梅小山はうつむいたまま顔を左右に振り、「いやうちこそごめ、クソなのはうちの親だから」と言って再び顔を上げた。梅小山には不同意性交とかに関する何かしらのトラウマがあるっぽいけど、羽哉はその詳細をわざわざ聞き出そうとは思わない。その話題に触れなければいいだけのことだ。
ボランティアスタッフ同士はお互いの素性を知らない。梅小山は割り当てられたベッドが隣だったから十日間トラブルがないように表面的なお付き合いを――それは結局利己的目的だ――しているが、梅小山という人となりは表面的なことしか知らない。いつも酒を飲んでいるとか。
「次の仕事まで時間あるしちょっと飲も。うち自販機行くけど、なんかいる?」
梅小山がそう言うので羽哉も一緒に行くことにした。ついでにレストランで、凛斗が言っていたおっきいマカロニのなんとかっていう料理も確認したかったし(レストランの外に掲示されているメニュー表を眺めるのみ)、それに、シフト勤務に慣れていないからだはうまく睡眠がとれない。だからさっさと酔って深く眠ってしまいたかった。
買い物を済ませ、レストランの入口にあるメニューボードの『リガトーニ・アッラ・グリーチャ(¥3,800)』の写真を撮っていかにもさっき食べましたっぽくSNSにポストしながら羽哉たちは再び部屋に戻った。
午後二時の船内には人がごった返していて、ときどき現れる窓からは明るい光が差し込んでいる。面一の青い空と青い海以外、外の世界にはなにもない。島も見えないし鳥も見えない。幻想か異次元の青い世界を浮いているようだ。開放的な景色から、窓のない部屋に戻ると世界は変わる。ここが海の上であることも、日常の外側にいることも忘れる。
ただの日常の延長に近いベッドの上に座り、梅小山と向き合う恰好で羽哉は買ってきた缶を開けた。酒の自販機の中で一番安かったチューハイのラベルにはうさみちゃんは描かれていない。ここはうさみちゃんシティじゃないから。
「てかうさみちゃん印のお水を飲んで徳を積まなきゃいい人生になれないってのはわかってんだけどさ。でもお水買うお金があると酒を買っちゃうんだよなあ。しょうがないよね。酒がないと生きてけないもん」
すでに酔っていた梅小山は買ってきたばかりの缶を開けて半分くらい一気に飲むと、自嘲のような笑いを浮かべて言った。「飲めば、やなこと思い出さなくて済むし」。そしてもう一口飲む。梅小山は羽哉より若いのに――梅小山に年齢を聞いたことはないので年下っぽいと思うのは羽哉の体感だが、幼いころはまったアニメとかゲームが羽哉とはすこし違うのでなんとなくそう感じている――もう酒に溺れている。梅小町の傷ついて成熟しすぎた精神が酒による幻想を求めている。
「私もさっき注意された……もっと徳を積めって。徳を積んでないから仕事できないんじゃないみたいなこと言われた」
「雨町?」。梅小山はそう聞いたあと、右手の缶をさかさまにして、最後の一滴を口の中に振り落とそうと何度も缶をゆすっている。缶入りコーンポタージュ以外でそんなふうにして飲んでる人初めて見た、と言いたかったけど羽哉は『コーンポタージュ』という名前を咄嗟に思い出せなくてやめた。缶/コーン/あったかい。検索で見つけた頃にはもうすでに梅小山は空の缶をごみ袋の中に入れて、二本目の缶を開けている。このペースでうさみちゃん印のお水を飲んだら、きっと雨町の言うように徳が積めるのかもしれないと羽哉は思う。でもたくさんの水を飲むのは意外と難しい。酒と同じように水を大量に飲むのが難しいのはなぜだろう?
「……まって。うわ。次のシフト緊急で入れるかって連絡きた」
梅小山はデバイスの通知を確認したとたん顔をしかめる。「むり。飲んでるしむり」。テキストをすばやく生成して送っている。「生理痛がひどいから無理って送った」。そして誇らしげに笑い、手に持っている缶を呷った。
しばらくして、壁とベッドで隔たれた相部屋の向こうがわで騒がしく動く人の気配や動作音がした。羽哉たちからは二段ベッドとそれを囲む壁を隔てているので相部屋とはいえ相手の顔も行動もまるでわからないけど、人の動作音とか、なにか話している不明瞭な声とか、ばたばたした感じはわかる。しばらくそれが続いたあと、羽哉たちのベッドとは反対側にある出入口のドアへ向かう靴音が何人分か続いて、そして部屋は静かになった。
相部屋の、壁を隔てたほかのスタッフたちの二段ベッドへそろそろと梅小山は近づき、そしてようすをうかがう。「わ。みんな行ったみたい。いまこの部屋うちらだけっぽいよ」。梅小山はぴょんぴょん跳ねながらベッドに戻ってきた。
「何日か前からこんなんばっかじゃない? 緊急でシフト入ってくださいとかさ。やっぱスタッフいなくなったからでしょ」
さっきよりも大きな声で、喉で声を殺さずにふつうの声量で梅小山が言った。
「やば、声おっきいよ」。焦った羽哉が人差し指を唇の前で立てて見せる。梅小山はわけがわからない、みたいな顔をして、再びふつうの声量で話す。
「だっていま誰もいないじゃん。うちらと、あと電源入ってないうさみちゃん」
相部屋の端には電源が入っていないうさみちゃんロボットが目の色を失ってただ立っている。チャージランプもついていないので、使わないうさみちゃんロボットをここに置いているだけなのかもしれない。
「……さっきの話だけどさ。いなくなったスタッフの」
梅小山は鼻を突き出すようにして話し始める。「参加者のひとたちってイベントに参加すると考えかたが変わってくるじゃん。もともとスピってる人もいるけど。うさみちゃん印のお水を買って飲むようになったりさ、運とか無意識とか、お金で動かせるって気づいた人たちが実際に行動に移すじゃん。そういう人たちにつけこんで、あとは近くにいる悪い霊を追い払えばこれからの人生は幸運が続くとかなんとか言ったんじゃないかな、それ除霊するのにお金を請求したんだって」
「へえ……除霊とかできる人だったんだ?」
「なわけないじゃん。だから参加者のひとが変に思って、ブレインレインに通報したらしい。で、いま」
「へえ……」
「へんなスタッフばっかで困るよね。こっちに皺寄せが来んじゃん。研修のときも思ったんだけど、この仕事ってさ……なんていうの、働かされてるっていうか、動かされてるって感じじゃない? で、これ見てみて」
ツアースタッフはフェリーで出発する二週間前からブレインレインが用意した研修施設でみっちり研修を行う。半ば幽閉された状態で、そこではツアー参加者と同じように昼夜問わず研修が行われる。
研修では特に解答のない解答を求められる問答が続いて、ツアースタッフ予定者たちは誰もが精神的に不安定な状態が続く。それはフェリーで行われているイベントでも同じだ。でも、それが続くとだんだんと脳がぼうっとなり、世俗的なことにまったく興味がなくなり、その代わり、景色が変わって見える。からだの内側から多幸感がとめどなくあふれるようになって、自分は新たな人格――それも、数段階上の――に生まれ変わったように感じる。
その感じかたは人によって違う。凛斗の魂の中に入った、凛斗と一体化したと言った者もいたし、無機質な研修施設の床いっぱいに花が咲いていると言った者もいた。羽哉も、それを聞いた次の瞬間からすべての床に広がるネモフィラが見えた。それは実際に咲いていた。
梅小山から共有されたリンクを開く。ソーシャルメディアの個人アカウントで、quzxという名前だった。発言にはうさみちゃんシティに関することが多い。そしてなにより、羽哉の知っているうさみちゃんシティとはまるで違うことが書かれている。うさみちゃんシティへの移住を促すこのツアーで、参加者へ絶えず見せるうさみちゃんシティ紹介動画の印象とはまるで乖離している。うさみちゃんシティへの批判的な内容。
「うちさあ、この人の言うこと間違ってないのかもって思うんだよね。たぶんうさみちゃんシティの住人っぽいし。このツアーのイベントで紹介されるうさみちゃんシティってめちゃくちゃ良いところみたく紹介してんじゃん。でも本当にそうかな? うさみちゃんシティってそんなにいい街かなって。うち、これ見てからそう思うようになったわ。今まで騙されてたけど。徳とかお水とかさ、なんか意味あんの? って思い始めたらもう無理。うわこれ嘘ばっかやん、って思ってんの。詐欺やったスタッフとかもさ、仕事とはいえ、ばかばかしくなったんじゃないかなあ。理想を語るうさみちゃんシティと、実際にうさみちゃんシティに住んでる自分の生活って、ぜんぜん違うし。うさみちゃんロボットでしょ、お水でしょ、出費多いよね。この支払いがなかったらもっと酒が買えるのに。なんかさ。このquzxって人が言ってることわかるよ」
羽哉は寝不足の体内でばきばきに効果を示し始めるアルコールのせいでぼやけて見える文字を拾い読みする。うさみちゃんシティはクソな街。ブレインレインは儲かってるけど市民は毎日しんどい生活。
このアカウントが言ってることは羽哉に実感のような共感をもたらさない。ただのいち市民の意見でしかないからだ。もしくはただのフェイク。すべてを鵜呑みにするなんて馬鹿げてる。そう考えながらも、羽哉はさっきの凛斗との会話を思い出していた。凛斗や、周辺のスタッフが船内のレストランでリガトーニ・アッラ・グリーチャを食べる事実と、自宅のフードプリンターでつくってきた塩おにぎりを食べ続ける自分。塩おにぎりは単調な味だからだんだん飽きてくるけど、フードプリンターでつくったからしばらく保存できるし、正直、ほかのものを食べたいと思わないわけではない。
とはいえあと数日、羽哉は塩おにぎりを食べ続けるだろう。浮いたお金でうさみちゃん印のお水を買ったり、ガチャガチャをまわしたりして徳を積まなければこれからも『最下位の人生』から這い上がることができないだろうから。凛斗のような人生の勝ち組になるには、親ガチャ失敗の挽回をはかったり人生の逆転を手に入れるには、徳を積んで神に認めてもらわなければならない。
梅小山はしゃべり続けている。まるで酔いがそうさせているように。羽哉の耳には声の成分しか入ってきていない。再び目を落としたテキストに意識が向いて、目の前の声の情報を羽哉の脳が掴まない。
quzxが語るうさみちゃんシティは、凛斗が啓発している『うさみちゃんシティ』とまるで違う。羽哉が知っている、住んでいるうさみちゃんシティとはまるで違う。うさみちゃんシティは世界のどの都市よりも美しくて洗練されていて、つねに新しいテクノロジーが住環境を快適にしてくれている。移住者が住むマンションはまるでホテルみたいにいつも綺麗で、街のいたるところがきらきらしている。照明や太陽が当たっているのとは違う、煌きのようなもので街が光って見える。
酔っているからか、梅小山はだんだんと声が高くなっていく。梅小山は缶を呷り、酔いで据わったように見える目を、顔を、天井――の、もっと上――へ向けて言う。「ツアー参加してる人たち見てると、うちらが受けた研修のこと思い出すわー。あれは洗脳に近かったのかもね」。
羽哉はさっきまで従事していたイベントでの参加者のようすを思い出す。参加者は日を追うごとになにかが変化しているのがわかる。参加することによって運を、約束された成功を導く運を自分のものにしようとする。羽哉がそうであったように。凛斗の近くで働く羽哉の現在が『運』をつかんだ結果であるように。
梅小山は買いこんだ缶を次々に開けている。呼吸のたびに吐き出されるアルコールのにおいが、さっきよりもこの空間に満ちてきた。羽哉は梅小山の話を、酔っ払いの戯言として忘れることにした。羽哉自身が体験したあの多幸感と、一瞬で美しく変化した世界と、美しい凛斗。それがすべてだ。誰かのもっともらしい言葉より、自分の経験がいちばん信用できる。
「私、つぎのシフトまでちょっと寝るね。おやすみ」
そう言って羽哉は缶の残りを飲み干し、ベッドスペースと通路とを仕切る厚手のカーテンを引いた。枕元のライトをつけ、制服が皺にならないように裾を伸ばしてから仰向けになる。カーテンの向こうから、梅小山のベッドのカーテンが引かれる音がして、缶を開けるプシュという音が続いた。カーテンによって遮音されたレベルの音で。
アラームが枕元でぶるぶる震えて目が覚めた羽哉がトイレへ行くためにカーテンを開けて個室を出ると、電源が切れて突っ立っていたうさみちゃんロボットの目に色が戻っていた。羽哉に気づくと「こんばんは」と言って丁寧にお辞儀をして、ドアを開けて通路に出ていく。ドアが空いた瞬間、ちょうど通路を通っていたべつのうさみちゃんロボットが横切り、うさみちゃんロボット同士が挨拶した。「ぽこぽこ」。
眠る前にカーテンを閉めていたはずの梅小山のベッドは開け放たれていて、梅小山はいなかった。次のシフトに入るのか、風呂に行ったのか、酒を買いに行ったのか、羽哉にはわからない。ボランティアスタッフ同士はお互いの素性を知らないから。梅小山は割り当てられたベッドが隣だったから十日間トラブルがないように表面的なお付き合いを――それは結局利己的目的だ――しているが、梅小山という人となりは表面的なことしか知らないから。
支度を終えて羽哉は二段ベッド式の部屋を出た。真夜中でも展望スペースや周辺の廊下にはちらほら人がいる。デッキへつながるガラスのドアに、廊下を歩く羽哉の残像みたいな反射が映っていた。その奥に丸くない月が浮かんでいた。月は二枚重ねのガラスのどっちにも反射して、ふたつの月が重なって歪んでいるみたいに見えた。
「あ」
明かりのないデッキになにかのシルエットがよわよわしい月の光によって一瞬だけ浮かんだ。羽哉はなにかが動いてみえるシルエットに注視した。ガラスのドアに鼻の先をくっつけて。シルエットには直観がくっついていた。凛斗。顔が見えたわけでも、絶対の確信があったわけでもないけど、あれは凛斗だという直観が――ずっと凛斗を追ってきた視覚的経験と記憶が――羽哉の脳の一番奥で結びつく。羽哉はガラスの向こう側をただ見つめている。
重なって見えたシルエットがふたつに割れて、いっこのシルエットはデッキの端へと離れていった。凛斗のシルエットが近づく。両腕が伸びて、デッキの端に立つシルエットに勢いをつけてぶつかる。




