4-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (前)
₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ {4-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎はちょっと長くなったので前・後編に分けて公開します
こっち入るまで会場整えておいて。そっから軽くリハして、参加者さんにアナウンス。わかってる? 先に参加者さんにアナウンスしたらさ、お待たせすることになんのわかるじゃん。別にあなたを責めてるわけじゃなくてさ。想像力があればふつうにわかることじゃん。だって誰も間違えたことないよ? あなたが初めてだよ? 変だよね。あなたの考えかたが間違ってるってことだよね。はい、じゃ次から失敗しないよね。てかさ。メモ取んないの? いまの要点。こういうのいちいちメモしとかないと、絶対覚えられないから。そんで後悔するのあなただよ? また失敗して、あああのときちゃんとしとけばよかったって思うのは俺じゃなくてあなただよ?」
雨町の声は怒りも嫌味も感情に出さないぶん冷たくてしんどい周波数だと羽哉は思いながら、制服のポケットからデバイスを取り出してメモする。『りんとさん/リハ/アナウンス』。こういう、あとから見返してもなにをメモしたのか思い出せない文字の羅列が羽哉のメモにはびっしり並んでいる。
「きっとあなたはまだ徳が足りないんじゃないかな。まだ移住してきてそんな経ってないでしょう。でも同期のスタッフはちゃんと徳を積めてるから失敗してないけどね。徳を積むためになにかやってる? なにか努力してる?」
メモの最後尾に付け足す。『りんとさん/リハ/アナウンス/とくをつむ』。そこではっとして羽哉は雨町を見上げて言う。「徳は積んでいます。毎日うさみちゃん印のお水を飲んでいます」。
「徳を積めるのはお水だけじゃないよ。もちろん知ってるよね? 参加者さんにもし、徳について尋ねられたらどう答えてんの? うさみちゃん印のお水だけで大丈夫でーす、とか言わないでしょう普通に」
お水。ガチャガチャ。凛斗のイベントの参加。うさみちゃんロボットを所有すること。ブレインレインから発売されてる徳のための商品や、サービスを利用すること。徳を積めるとされる事柄は思い出せるのに、そのすべてが千切れて床に落ちたトイレットペーパーの破片のかたちになって、ばらばらと羽哉の脳の中を駆け巡るだけで言葉にならない。羽哉の喉は言葉が湧き上がるのを待っていたのに、喉の奥がぷるぷる痙攣するだけで何も言うことができなかった。
雨町は偽物のほほえみをつくり、嘘の激励とともに羽哉へ偽りの慈しみを演出した。「期待してるから」。雨町が目の前を去る瞬間、〈相手〉と〈自分〉との認知的境界が切り替わる瞬間、偽物のほほえみが憎しみと嫌悪の表情にスライドしたのを羽哉は一瞬だけ見た。見てしまった。見えてしまった。
徳が積めていないのかもしれない。だから、しんどいことばっか起こるのかもしれない。運に見放されてるのかもしれない。羽哉は考える。もっと徳を積まなくてはと考える。
離島で一泊したあと再びフェリーに乗船して、凛斗のツアーはまだ中盤だ。旅館で行われたイベントで体調不良を訴えた人もいたが、参加者は一人も漏れることなくフェリーに乗り込んでいる。そしてほとんどの参加者がイベントのたびに集まって、凛斗と一緒の時間を過ごしている。それがたとえ雨町によるしんどい責めの問いの連続でも、さいごには救いがある。羽哉が経験したような不思議な体験とか。凛斗からのハグとか。だから誰もが参加をやめない。
イベントが行われる部屋へと進むと、羽哉が誤って、イベント開始のアナウンスをして集まったツアー参加者たちへ、いったん部屋へ戻るよう促しているスタッフが通路にいた。口のわきに右手をあてて通路に集まる人々へ呼びかけている。「イベントは準備が整い次第、開始します。再度ご案内しますので、いったんお部屋へお戻りください」。
参加者たちがぞろぞろとその場をあとにするのを見届けてから、羽哉はイベントが行われる部屋のドアへ近づいた。呼びかけを行っていたスタッフに軽く頭を下げる。スタッフは眉間に苛立ちを漂わせてドアを開け、さっさと中に入ってしまった。
そもそも、イベントが始まる時間は決まっていた。だからその前に参加者へイベント開始の呼びかけをしたのが羽哉だった。けれど出演する凛斗の準備が間に合わず予定時間をずらすことが決定した。その決定のころにはすでに、羽哉はすべての参加者へのアナウンスを終えていた。
予定どおりに動いただけなのにと羽哉は思う。だからなにも悪いことをしていないのに雨町には失望されたし嫌味も言われたし、ほかのスタッフからも嫌われた。悪いのは。そう考える羽哉の脳裏に〈悪い〉のイメージと、凛斗の顔が浮かぶ。
無意識にふたつのイメージが関連として浮かんだ自分自身を全身で否定するように、羽哉は全力で首を左右に振る。イメージを頭の中から追い出す。こんなことしてるから運に、凛斗に見放されてしまうんだ、羽哉の脳の中にいる社会的正義の羽哉がささやく。
絨毯が敷かれた通路には人通りがほとんどない。しんとしている。羽哉は割り当てられた仕事――ドアの前の警備は最低ランクのスタッフの仕事である――のために通路に立っていた。羽哉は工事現場に立ってる交通誘導員のしごとをしたことがないが、いまなら彼らのつらさが痛いほどわかる。通りに、仕事すべき目の前の世界にまったく変化がない場合、ただ立っているのは精神的な苦痛をともなう。そして時間が止まってるんじゃないかと思うくらい進んでいかない。
同じ壁と同じドアが続く通路に立ち、姿勢をまっすぐに整えたまま動くこともできず羽哉は重油のような時間を過ごしていた。ときどき背後のドアの内側からスタッフたちの声がしたがなにを言っているのか聞き取ることはできなかった。
通路の端に人間の影が現れた。羽哉は目の端で人間の影を追う。もし、イベント参加者なら開始時間の変更を伝えなきゃいけないし、ただの乗船客だったらここに突っ立ってる自分が不審者ではないということを無言で、表情で、ふんわりとアピールしておかなくてはならない。
けれど次の瞬間には、羽哉の脳で生成された思考は一瞬で吹っ飛んだ。はっとする。瞬間的に背中が冷たくなる。向こうから近づいてくるシルエットでわかった。凛斗がこっちに近づいてるということを認識した羽哉の全身の血がいっきに噴き上がるみたいに、からだじゅうをものすごいスピードで巡る。
「あ、お、おつかれさまです」
凛斗があと三歩でドアの前に来る、くらいの距離で羽哉は挨拶した。ほんとはもっと離れてるところからでも話しかけたかったが、凛斗が羽哉の顔を認識できるくらいの距離になるまで耐えた。
「あ、おつかれさま。俺、中はいってもいいかな?」
凛斗は右手に持ったなにかのスムージーをちゅうちゅう吸いながら聞く。羽哉は思う。凛斗くんスムージーも似合う。ストロベリーショコリキサーが一番似合うと思ってたけどこれもめちゃくちゃ似合う。
どうぞ、と言ってドアの前から半歩、横にずれた羽哉の顔を凛斗は一瞬だけじっと見た。そして笑いながら声をひそめて「さっき雨町にめっちゃなんか言われてたでしょ」と言った。羽哉は大きく目を見開いて声を失う。なんかめちゃくちゃプライベートっぽく凛斗が話し掛けてくれるというシチュエーションに酔って声が出ない。
「あの角曲がろうとしたらちょうど見えてさ。雨町がすんごい怖いオーラ出してたから隠れちゃった。ごめんね」
「いえ! ぜんぜん、ぜんぜんです」
アイドルだったころからずっと存在を追い続けてきた凛斗と普通にしゃべってるという事実が羽哉をありえないくらい高揚させる。気分が昂りすぎてパニックに近い状態になっている。あらゆる情報が入り乱れてカオスな闇鍋の状態になった脳からは言葉がうまく取り出せない。それと同時に羽哉の脳の裏では古い思い出が上演されている。
凛斗がまだ少年だったころ、羽哉は凛斗と同じ事務所に所属しているほかのアイドルに深くはまっていた。羽哉はそのころ毎日のように出待ちをしていた。スタジオでのレッスンを終えたアイドルが出てくるのを待ちながら、出入口付近で時間をつぶしていた。
十人ほど集まっているいつもの出待ちメンバーも同じで、いつものように挨拶をするとめいめいはスマートフォンの画面を注視して、出入口から出てくる目当てのアイドルをただ待つだけの時間が路地裏でじわじわと過ぎていく。
毎日義務のようにログインしているオンラインゲームのログインボーナスガチャをひいていたときだった。ごくたまに超レアが出たりするので、今日も羽哉はレアが出るよう祈りながら画面をじっと見つめていた。そのとき、出入口から人影が現れた。画面から目を上げると少年だった。事務所の研修生として所属しているアイドルの予備軍のような少年たちで、彼らも同じフロアのスタジオで毎日レッスンに励んでいる。のは知っている。目当てのアイドルではないからいつもならすぐに画面に目を戻す。はずだった。
ただ、羽哉はその瞬間、出てきた少年のひとりに目を奪われた。あまりに美しくて、ひとりだけ真っ白のオーラを放っていた。ログボガチャとかもうどうでもよかった。少年の凛斗から目を離すことができなかった。
翌日から羽哉は凛斗を追い始めた。それまで追っていたアイドルへの興味は失ったわけではないけど凛斗へ興味が傾くたびに相対的に薄れていった。
基本的に事務所は所属アイドルへの接触を禁じていたが、話しかけることを公に許している場所があって、それはある収録スタジオから最寄り駅までのあいだの、大きな道路を横切る横断歩道だった。羽哉は凛斗の動向を調べ上げ、そのスタジオへ行くときには必ず横断歩道で話しかけた。まだファンの少ない凛斗に話しかけるのは羽哉を含めて三人だった。
あのときのことを凛斗はたぶん覚えていないと思う。目の前に立つ凛斗を見上げながら思う。覚えてなくてもいい、けど思い出してくれたらうれしい。昔から応援してたのはわたしだということを認識してくれたらうれしい。それでわたしを特別に思ってくれたらうれしい。そういう気分は羽哉をそわそわさせる。相手により良く見られたい、より好かれたい、みたいな浮ついた気分が生成されて、普段の自分ではない、うまく作り出された〈自分〉というものを魅せるモードが発動される。
「雨町、めっちゃ機嫌悪かった?」
スムージーをちゅうちゅう吸いながら凛斗は困ったような、恐れたような、でも完璧な表情で聞いた。羽哉のそわそわは肌に電気を帯びたようなぱちぱちの刺激になって、喉の奥や歯茎がかゆい。
「あ、えー……そう、ですかね」
「ははっ。そうだよね。言いにくいよね。ごめんごめん。あ、でも雨町もいろいろあって今めちゃくちゃしんどいらしいから。たぶんそのせいでピリピリしてるだけで。てかそういうの表に出しちゃいけないよね。悪いのは雨町だから、ほんと気にしないで」
凛斗くんがわたしを労ってくれている。という事実。羽哉はいま実感している世界が夢じゃないことを祈る。できれば現実の、眠っていない、自分だけで完結する世界でないことを祈る。じゃないと誰かに自慢できない。都合のいい夢を自慢したところで、ただの狂人扱いされるだけだ。
「あり、がとうござい、ます」
感動に打ち震えているせいで羽哉の言葉はまるで日本語がうまく話せない人特有のイントネーションになってしまった。それでもいいと羽哉は思う。目の前の凛斗は笑っている。羽哉によって、凛斗は笑っている。この事実。それと同時に羽哉の脳にふと思い浮かんだ『ある話』が、高揚している羽哉の喉を反射的に通って――理性のフィルターを通らずに――凛斗への問いかけとなった。「あの、雨町さんがしんどいのって、船からいなくなった……」。
話している途中で羽哉は我に返った。凛斗の笑いが消えたからだった。けれどすぐに凛斗はいつもどおりの、魅せるための顔をつくってみせる。その表情は、完璧な表情だけどあらゆる距離を持っている。隣にいるようで、『あなたとは絶対に交わることのない距離』のようなものが含まれている。近くて遠い。ようするに凛斗のスペースに入ることができない、凛斗側からの排斥のような距離。
「すみません。へんなこと聞いちゃって」
「はは。……あ、朝ごはん食べた? 俺ね、さっきこれ食べたんだけどめちゃくちゃうまかったからおすすめ」
そう言って凛斗はペンダント型デバイスを使って、写真を羽哉の目の前に展開させる。フェリーのレストランかカフェっぽいテーブルと、ふちが無駄に広くて大きい皿と、おっきいマカロニっぽい料理。
「えーおいしそうですね」
「なんだっけ。リガトーニ・アッラ・グリーチャ。だっけな? うん。たぶん。あー。仕事しよ。あーめんどい」
わざとらしく顔をしかめて凛斗が言った。素の表情を見たような気がして羽哉の脳は心地よいパニックになる。
「え、凛斗さんもめんどい時ってあるんですか。意外」
「そりゃあるよ。人間だし。……でも俺はこういうことしかできないからね。うん。こういうことしかできないんだと思う」。そして我に返ったようにいつもの美しい笑顔をつくって言った。「だから、おいしいもの食べたほうがいいよ」。
羽哉は美しい笑顔を直視できず僅かに俯く。そして聞いた。「充電できました?」。
「うん。フルで」
そしてそのまま凛斗はドアにカードキーを翳して、部屋の中に入って行った。羽哉は朝ごはんに塩おにぎりを食べた――乗船時に持ち込んだ――ことを思い出しながら見送る。凛斗がマカロニ――すでに羽哉は料理名を忘れてしまった――を食べたレストランにまだ入ったことがない。そのお金をうさみちゃん印のお水とか、徳を積むためのか活動に充てたいから、ということも同時に考えながら。
こういうことしかできない、の意味を羽哉は考える。こういうことしかできない。アイドルのときもそうだったけど、『人前に出てお仕事する』ということを指しているのかもしれない。とはいえ凛斗には誰にも真似できない強いオーラがあるし、誰もが適わない求心力を持っている。それが求められている。少なくとも、いまの状況では。
羽哉は再びしんと静まった通路で、凛斗の気配すら残さないドアをしばらく見つめていた。インカムからの声はそのあいだ、なにも聞こえなかった。羽哉は唇の先だけ僅かに震わせて呟く。「おつかれ




