10-1「やっとられんのですよ、呑まないと」
「の、脳がぁ~……脳が痛てえ~……」
夏休みも残すところ1週間となったある朝、ワタルがごはんを食べにリビングへ行くと父が苦しそうに項垂れていた。
側では母が呆れたように介抱している。
「……お父さん、やっぱり二日酔いになってるじゃん」
「ねー、止めろって言ったのに聞かないんだから」
「脳がぁ~……脳がぁ~……」
頭を抱えて苦しむ父を横目に、ワタルと母は一緒にため息をついた。
ワタルの父がこうなるのは珍しい事ではなかった。
基本的にお酒が大好きで夕飯には必ずビールや日本酒を呑むような人だが、仕事などのストレスを抱えて帰った日には酒の量がドッと増える。
そうして翌日にはこのように、リビングでのたうち回る姿が見られるのが通例となっていた。
「こんなに辛いなら……俺は酒を辞めるぅ……」
「またそんな無理な事言って……何度目かしら? お酒辞めるって言うの」
「いや本当に……今回は本当にやめてやるぅ……」
「……ワタル、今の言葉スマホで録音しときなさい」
「えぇ……? まあいいけどさ」
「もう俺は今後一切お酒は呑みませ~ん……!」
そう言いながら項垂れ続ける父を、母は無理やり立たせて背中をバシっと叩いた。
「ほら薬も飲んだでしょう? 急がないと遅刻するわよ?」
「いや今日は本当に辛くってぇ……半休使っちゃだめ?」
「自業自得でしょ、ほらさっさと準備する!」
母に尻を叩かれ、父は渋々会社へと出かけていくのだった……。
「くぁ~……! たまらないなあ酒というのは!」
その日の夜、ワタルがリビングに降りると、帰宅したばかりの父がすでにお猪口を片手に上機嫌になっていた。
その姿を見たワタルは、すかさず朝録音した父の音声を本人の目の前で流した。
『もう俺は今後一切お酒は呑みませ~ん……!』
「……やめなさいワタル、そういう……そういうのはやめなさい」
「いやでも、その日のうちに自分の言った事守らないのは……」
「いいか? 大人になるっていうのはな、こういう事なんだよ」
どういう事だよとワタルが呆れていると、同じく呆れた表情をした母がリビングに顔を出した。
「適当に聞き流しておきなさい、酔ってる時のお父さんが言う事なんて真面目に取り合うもんじゃないんだから」
「なっ……何て事言うんだお母さん! 俺だって、俺だってなあ……」
そんな夫婦のくだらないやり取りを眺めながらワタルは席について夕飯を食べ始めたのだが、気になった事について父に聞いてしまった。
「ねえお父さん、お酒ってそんなに美味しいの?」
「おっ、ワタルもお酒に興味持つ年ごろかぁ? しかしダメだぞ、お酒は二十歳になってからだ」
「そういうんじゃないんだけどさ、呑みすぎて酷い目に遭ってるのちょくちょく見てるから、それでも呑みたいものなのかなって」
ワタルにそう言われた父は、腕組みをしてウーンと唸ってから口を開く。
「例えば仕事ですっごい疲れたとするだろ? そういう日に呑むお酒ってめっちゃ美味しいんだよ」
「……へえ」
「だからな? 逆を言えば、そういう時にお酒を呑まないのは勿体ないってわけでな?」
「いやー、ちょっとよく分かんないですね」
「分かれよなぁ? ……いやしかし、そうだな」
突然、父がぶつぶつと呟き始めるのを見てワタルは何か嫌な予感を覚える。
そうしてしばらく小声で独り言を言っていたと思っていると、父がにんまりとした笑顔でワタルを見つめて来た。
「ふっふっふ……ところでワタルは、お酒にまつわる怖い話って知ってるか?」
急に怖い話と言われ、ワタルの心臓はドキリと跳ね上がる。
「おっ、お酒の怖い話なんて……」
そこまで言って、ワタルはお姉さんがこの間話してくれた怪談を思い出して背筋を震わせた。
自分で勝手に顔を青くしているワタルにかまわず父は話を続ける。
「これは俺の同僚から聞いた話なんだがなあ……」
◇◇◇
これは会社員のAさんから聞いた話である。
彼には同じ会社で働く友人がいて、二人とも大の酒好きだった。
なので、仕事帰りにはいつも一緒に行きつけのバーに行ってはべろべろになるまで呑んで帰るのが日課になっていた。
そんな友人がある日病気を患い、それが急速に悪化。
結果、そのままぽっくりと亡くなってしまったのだという。
葬式も終わってしばらく経った頃、Aさんはそういえば友人が死んでからまだ行きつけのバーに顔を出してない事に気づいた。
一緒に行ってくれる人間がいない事に寂しさを覚えつつ、Aさんは久しぶりにバーへ向かう事にするのだった。
友人が亡くなった事を初めて知ったバーのマスターはとても驚きながらも、棚をちらっと見てAさんにこんな事を訪ねて来た。
「そういえばご友人がキープしてたボトルがあるんですが、どうしましょうかねえ」
見ると、それはとても高いブランデーのボトルだった。
封は開いているものの、殆ど減っていないように見える。
こういう場合は店で処分するのですが……というマスターに対してAさんは待ったと声を掛けた。
「捨ててしまうなら、いっそ自分にそれくださいよ」
「いやー、しかし……」
「アイツもきっと自分に呑んでもらいたいって思ってますよ、きっと」
そんなこんなで、Aさんはまんまと高いブランデーをいただくことが出来たのだった。
……その夜。
Aさんが寝ようと部屋の明かりを消して布団に入った途端、体が凍り付いたかのように動かなくなってしまった。
金縛りである。
困惑していると、何やら頭の側で人の気配がある。
首だけはどうにか動かせるので、そちらの方へ顔を向けると……。
なんと、亡くなったはずの友人がAさんの枕元に立っていたのだった。
友人は動けないAさんの顔を見下ろしながら、何やらぶつぶつと言っている。
「……せ……お……」
「おっ、お前死んだはずじゃ……」
そこで突然、友人が目をカッと見開いて大声で叫んだ。
「俺の酒返せよぉ!!」
……数日後。
Aさんは友人の墓へとやって来て、彼がキープしていたブランデーのボトルを開けて中身を墓石へ注いだのだった。
「ああ、うまい酒だ」
そんな友人の声が、Aさんには聞こえたのだという……。
◇◇◇
「……というように、酒というのは死んだあとでも呑みたいとい痛ァ!!!」
いつの間にか背後に回っていた母が、父の頭にゲンコツを振り下ろしていた。
「まぁーた怖い話して……見なさい、ワタルが青い顔して凹んでるじゃない」
「いやでも、俺としてはもっとワタルにお酒の魅力をだな痛い!ごめんなさい!!だからやめて!!!」
2発目が入った、しかも今度はピストルの手でだ。
そんな母に怒られる父の姿を見ながら、ワタルは先ほど聞いた話の余韻を背中に感じながら、お酒の味への興味を抱き始めていた。
翌日、ワタルの姿は図書館の中にあった。
夏休みが始まった当初は本などあまり読まないために図書館とは縁が無かったが、最近はほぼ毎日通い詰めるようになっていた。
その理由は……。
「あらァ、今日も来ていたのね……」
「あっ……こんにちわ、お姉さん」
その理由は彼女に会うためだった。
午後に図書館でお姉さんに会って他愛もない会話をする、それがワタルにとってこの夏の一番の楽しみとなっていた。
……まあ、その為には彼女の話すこわい話を我慢して聞かなければならないのだが。
二人は話をするために図書館の外へ出て、そばにあるベンチへと腰を下ろした。
太陽もだいぶ傾き始めているお陰か、夏ではあるが木陰の下にいると結構涼しく感じる。
「そういえば……キミ、さっき珍しい本読んでたわねェ……?」
お姉さんのいうワタルがさっき読んでいた本、それは世界中のお酒について書かれたものであった。
ビール、日本酒、紹興酒、カクテル、ウイスキー……いろんな物が写真と共に紹介されており、見ているだけでもなんだか楽しいものだった。
昨晩の夕飯時の父との会話でお酒という物に興味を持った事を、ワタルは素直にお姉さんに話した。
「そう……でも私、キミのお父さんのいう事ちょっと分かるなァ……」
「えっ、そうなんですか?」
「課題のレポートをやっと書き上げて提出した後に呑むお酒の美味しいこと美味しいこと……」
そんな風に恍惚な表情でお酒の美味しさを語るお姉さんを見て、ワタルはふとした疑問が頭に浮かぶ。
「そういえばボク知らなかったけど、お姉さんってもうお酒が呑めるくらいの歳なんですね」
ワタルがそう言った途端、お姉さんの表情が一瞬ピシッと凍り付いたかのように固まった。
「……あの、お姉さん?」
「呑んでないわよ?」
「……お姉さん?」
「今のはね、そうだったらきっと美味しいだろうなァ……っていう私の妄想よ?」
「お姉さん?」
とても妄想で語っているようには見えなかったが……と、ワタルは訝しんだ。
「お姉さん、もしかして未成……」
とワタルが言おうとした瞬間、恐ろしい速度でお姉さんの手が伸びて彼の口をふさいだ。
「オホホホホ! そう言えば私もお酒に関する取っておきの話があるの!」
「むぐぐ……お、お姉さんそれは……」
「ね、ねえ……怖い話……聞きたくない?」
結局怖い話を聞かされる羽目になるのかと落胆するとともに、お酒の怖い話なんてそんなにあるのだろうかとワタルは興味を持った。
「そ、それってどんなのですか……?」
「ふふっ、この話はねェ……」
おずおずと尋ねるワタルに対して、お姉さんはにやりと妖しげな笑みを浮かべながら語り始めた……。
──次回「夏禁の酒」




