6-1「おい、山行かねえか?」
「よーし、みんな一人も休まずに来れたね!」
担任の磯崎先生が教室を見回しながら嬉しそうに言った。
一方で、ワタルを含めた生徒たちはみんな億劫な表情で席に座って先生の話を聞いている。
ワタルたちの通う学校では夏休み中の登校日が決められており、それが今日なのであった。
「どう? みんな宿題ちゃんとやってる?」
「全部終わっちゃったから暇だよ先生ー」
「あら絵日記も全部終わらせたなんて、土田くんすごいじゃない!」
えーちゃんのふざけた答えに、クラス中に小さな笑いが起きた。
「まあみんな元気そうで、先生安心だよ。それじゃプリント回すねー」
そう言って磯崎先生はプリントを配り終えてから連絡事項を話し始める。
その大半は2学期での行事などについてだった。
「……というわけで、まだだいぶ先だけど秋には学校登山があるからね。みんな登山用の靴ちゃんと用意しておいてね」
「えー今年も登山かよー」
「やだよー疲れるもん」
「クマが出たらどうしよう」
登山という言葉が先生から出た途端、クラス中で文句が飛び交う。
ワタル達の通う学校では毎年秋になると学校全体で登山学習を行っているのだが、高学年ともなるとなかなか険しいルートを登る事になる。
その記憶のせいか、生徒たちには大分嫌われている行事であった。
「まあまあ、みんな。秋の山は見所多くて楽しいよ? それに……」
そういいながら、先生は窓際へ行ったかと思うと、カーテンを閉め始めた。
1枚1枚閉じられていくたびに、教室が薄暗くなっていく……。
「今年行くG山にはね……こんな怪談があるんだよねー」
教卓に戻った先生の口から怪談という言葉が出た途端、教室中が静かに沸き立った。
このクラスの生徒の大半はこういう話が大好きであり、先生もそれを熟知していた。
きっとこれで、みんな登山に興味を持ってくれることだろう……そう、怖い話が苦手なワタル以外は。
「はは……なんでみんなこういうの大好きなんだよ……」
逃げ出すことも出来ない状況で、ワタルは昼間の朝顔のように萎れる事しか出来なかった。
◇◇◇
登山が趣味のMさんの話。
Mさんは若いころから、登りやすい低山から険しい高山まで、いろんな山に登った事のある筋金入りの登山家だ。
そんなMさんがG山という、初心者登山家でも登りやすい山へ行った時の話である。
Mさんが山道を登っていると、視線の端を何かが横切ったように感じた。
その道は、それ自体はしっかりと整備された山道だったが、片方は谷に向かって急斜面になっており、もう片方は草藪になっていて人が通れそうには見えない。
ならば野生動物か……そう思ったMさんが注意しながら行く手を進んでいくと、再び草藪の中に何かがいるような気配を覚えた。
もし動物なら刺激してはいけない。
そう思いながら、気配を押し殺してMさんがゆっくりと顔を向けると……。
……人がいた。
町中で普通にいそうな恰好をしている中年の男性の上半身が、少し離れた草藪の中からつき出て、Mさんをじっと見ている。
突然の出来事にMさんが戸惑っていると、男性はニヤリと笑ってから体を引っ込めてしまった。
……と思った次の瞬間、草藪から何やらガサゴソという音がし始め、それが近づいてくる。
──さっきの男性が草の中をかき分けてこちらに来ようとしている。
急に怖くなったMさんはその場を足早になって抜けようとするが、音は依然として背後から聞こえてきていた。
……付いて来ている。
もう何だか怖くて仕方ないMさんは全速力で逃げようとした……が、思いとどまった。
山道で走るだなんて言語道断、足元の安全を確認して進むのが登山の鉄則である。
それを思い出したMさんは速度を落としてしっかりと歩き始めた……その途端。
──ちっ。
何やら男性の舌打ちのような音が聞こえ、背後からの草が擦れる音も聞こえなくなった。
どうやら助かったのだろうか、安堵したMさんが足取りもしっかりと前を進んでいくと……。
……山道が、がけ崩れか何かで崩れていた。
もし恐怖から逃れるように走り出したりしていたら、注意力が足りずに足を滑らせて落ちていたかもしれない。
ここをもし落ちていたら……Mさんはゾッとする事しか出来なかった。
◇◇◇
「……っていうのが、G山で噂されている『山のおじさん』っていう話だよ」
磯崎先生の話が終わると、聞いていた生徒たちから次第に反応が聞こえだしてきた。
「なんだよそのオッサン、怖えー」
「それって幽霊? それとも妖怪……?」
「俺もおじさんに会えるかなあ」
そうしてクラスメイトたちが話の感想で盛り上がる一方で、ワタルはやはり力無く項垂れるばかりであった。
話に出て来たおじさんのイメージが不気味過ぎて、脳裏から離れないのである。
それを知ってか知らずか、先生は満足そうに話を続ける。
「まあつまり、もしかしたら山のおじさんが出て来るかもしれないので、事前の準備はしっかりと……」
すると突然、教室の戸が開いて、恐ろしい形相の妙齢の女性が入って来た。
「……磯崎先生? カーテンを閉め切って、何の最中ですか?」
「げっ、教頭先生……」
突然の教頭の登場で教室中が一瞬で静まり返る。
磯崎先生は年齢が比較的近いという事もあり、生徒たちとはまるで友人みたいな距離感で接してくれている。
そのため子供たちからの人気は高いのだが、生徒とは適切な距離感を取るべきと考える教頭はこれを快く思っていないようだった。
教頭は教室を見回して大体何をしていたか察すると、
「なるほどなるほど……磯崎先生、ちょっと話があります。……廊下へ」
「は、はぁい……」
そうして二人が教室外へ出た途端、教頭の怒号が学校中に響き渡ったのであった。
その後、教頭先生にこっ酷く怒られた磯崎先生が予定よりも早く切り上げてくれたので、ワタルはお昼前に自宅に帰る事が出来た。
母にただいまを言ってから自分の部屋に飛び込み、エアコンのスイッチを入れる。
途端に、それまで蒸し暑かった部屋に清涼感のある風がなだれ込んで来た。
「くあぁ~……生き返る~……!!!」
夏の日差しを受けて上がった体温が急速に下がるのを感じ、それがとても心地が良い。
エアコンが直って本当に良かったとワタルは心の底から実感するのだった。
その後昼食に素麺を食べてから、ワタルは午後どのように過ごすか考えた。
夏休みの宿題はほぼほぼ終わって、あとは自由研究と絵日記を残すのみとなっている。
ゲームでもやって過ごそうかとも考えたが、今はそこまで気分じゃない。
いっそ涼しい風を感じながらお昼寝と洒落込もうか、なるほどそれはとても魅力的だ。
いろいろと予定を考えるワタルであったが、頭の片隅にどうしても図書館のイメージがチラついてしまう。
確かに最近は図書館に居心地の良さを感じるようになったが、エアコンが直ってしまった今、わざわざ行く理由もない。
それでも行くのだとしたら……。
「あら……わざわざ私に会いに来てくれたのかしらァ……?」
一瞬、脳裏にほくそ笑むお姉さんの顔が過ったワタルは、全力でかぶりを振ってそのイメージを払いのける。
これではまるで、お姉さん目当てに図書館に行きたがってるみたいではないか。
ワタルは頭の中でそれを必死に否定した。
「……あっ、でも……そうか」
その時、ワタルの中でお姉さんに会わなければいけない理由が思いつく。
──山のおじさんである。
G山に出ると先生が言っていたおじさんが本当にいるのか、それとも先生のただの作り話なのか。
もし本当にある話なら、きっとあの怖い話が大好きなお姉さんは知っているだろう。
「しょうがないなあ……面倒くさいけど、図書館に行くかあ」
ワタルはエアコンの電源をオフにした。
ワタルが図書館の入り口をくぐると、談話室で何かのレポートを書いているお姉さんの姿が目に入った。
「あら……わざわざ私に会いに来てくれたのかしらァ……?」
先ほど自分の脳内に浮かんだのと同じセリフがお姉さんの口から出たのを聞き、ワタルはなぜか自分自身に腹が立ったが、なんとかそれを顔に出さないようにした。
「その……実はお姉さんに聞きたいことがあるんですが」
「ふふっ、頼ってくれるのは嬉しいわねェ……それで、どんな事?」
ワタルはお姉さんの隣の席に座り、磯崎先生が今日話していた山のおじさんについて尋ねる。
これでお姉さんが知らないと言ってくれれば、安心して登山に行けるのだが……。
「あらあら! 久しぶりに聞いたわね、山のおじさんなんて!」
「えっ……本当にある話なんです……か……?」
「ローカルな怪談なんだけれど、この県の怖い話を集めた本とかに確か載ってたはずよォ……」
嬉しそうに語るお姉さんを他所に、ワタルは絶望に飲まれていた。
つまり、秋の登山でもしかしたら遭遇してしまうかもしれない……そう考えるだけでゾッとさせられるのだった。
「あの……そのおじさんって、幽霊なんですか?」
「うーん……よく分かんないのよねェ……」
ワタルの質問に、お姉さんは頭を傾げながら答える。
「幽霊なのか、妖怪なのか……もしかしたらヒトコワかもしれないし、何なのかしらね?」
「ええ……ちょっとよく分からない存在多すぎませんか……?」
「まあそういうものよォ……特に山の怪談なんてよく分からないものだらけだし」
そこまで言ってから、そうだ! とお姉さんは手をポンと叩いた。
「ねぇ、怖い話……聞きたくない?」
「……勘弁してください」
「山の怪談でいいのが入って来てるのよォ」
「お寿司屋さんじゃないんですから……」
「イキがいいのよ!?」
これは聞くまで離してもらえなさそうだ……。
ワタルは観念して、お姉さんの話をまたしても聞く羽目になってしまったのであった。
──次回、「雪男」




