長宗我部千佳の孤独Ⅱ
優しく抱き上げる腕の中で、長宗我部千佳は目を覚ました。体を包む白い寝間着とシルクのナイトキャップの千佳は、黒いジャケットの腕に抱えられていた。
「ん……。まだ眠たいわ」
寝惚けまなこを擦って、抱き上げる腕の主を見上げた。起きたばかりでなかなか目のピントが合わない。
「まだ寝てていいよ、お姫様」
なんだか聞き覚えのある女の声。だんだんその顔に目のピントが合ってきて、千佳は自身を抱き上げる腕の主を認識した。
「レイ……ナ?」
気付いてから、だんだん意識が覚醒してくる。ようやく自分が怪盗レイナの腕の中に居るのだと気付き、慌てて逃げ出そうとする。
「嫌!下ろして!」
「降りる?どこへ?」
言われて、千佳は下のほうを見やる。そして目に入ったのは、数十メートル下に広がる街並み。前髪を荒らす上空の気流。
千佳は、思わずレイナの胸に抱きついた。
「高所恐怖症だった?」
「そっ……そんなことない、けど……。早く下に降りなさい!」
「待ってね、もう少しだから」
その通り、ほどなくして千佳を抱きかかえるレイナはビルの屋上に降り立った。地面に足をつけることのできた千佳だったが、その脚は体重をうまく支えることができずへたり込んでしまう。
その横でグライダーを閉じたレイナは、手早くスーツを脱いで涼しげな夏服に着替える。一方で、千佳にも洋服を渡す。しかし千佳はそれを見ているままキョトンとしていた。見かねたレイナが声をかける。
「パジャマのままじゃ歩き回れないでしょ?自分で着替えれる?私が着替えさせてあげようか?」
千佳は少しムッとしたようで、キョロキョロとあたりを見回してから言う。
「着替えくらいできるわよ。ただ、その……。お部屋の中で着替えたいわ」
確かにその通りで、ここは周りに仕切りなどない屋上であった。恥じる千佳のほうが正しい反応であるかも分からない。
これに少し悩んだレイナだったが、ポイと黒い布を渡す。レイナのマントだった。
「それで隠して着替えたらいいよ。大丈夫、どうせここに人は来ないから」
千佳は、それでも暫くモジモジしていて、数分経ってからようやく着替え始める。パジャマから着替え終わった様子の千佳の手を取り、レイナはビルから降りて外へ出た。
狭い路地を抜けて表通りに出る。都心近郊ではどこもそうだが、平日の昼にも関わらず途切れることなく人通りがある。そんな文化経済の淵叢でずっと生活していたのだろうに、千佳はちょっと怯えたようでレイナの腕にしがみついて歩いていた。緊張しているようで、口数も少ない。
途中、トイレに立ち寄る。他に人もいないようで安心したのか、トイレの個室の中で、千佳はようやく口を開いた。
「どこに行くの?」
レイナは洗面台で化粧直しやら荷物の整理やらしながら答える。
「どこに行きたい?」
「……おうちに帰りたいわ」
「じゃあ、それ以外で」
「嫌だ」
「わがままなお姫様ねえ。ディズニーランドでもなんでも連れてったげるからさ。行きたいところ、言ってみてよ」
「わかんない。ずっとおうちの中にいたから。……おばあさまには、一回だけ遠くに連れて行ってもらったことがあるけど。その場所も、どこか覚えていないわ」
「遠く、ねえ。じゃあそこに行こうか」
「……?場所はわからないのよ?」
「いいじゃん、とりあえず遠くへ。そうと決まれば出発するよ」
「どこに行くのよ!まず教えなさい!」
千佳の問いに、レイナは答えなかった。
人の多い場所に出ると、千佳はまた黙り込んでしまう。手を引かれるがままに、千佳は都内の大きな駅へと向かう。
電車を乗り継ぎ、都心から離れる方向へ。だんだんと車内の乗客も、車窓の外の建物の数も減っていく。人の目が少なくなってきて安心したのか、千佳は「眠い」とか「疲れた」だとか、不満の言葉を漏らし始めていた。着ている服にも不満そうだった。ゴスロリが良かった、とか。
「その服、気に入らなかった?」
レイナに問われて、千佳は自分の体を見下ろした。白が基調の、涼しげな透け感のある服。
「別に、嫌いではないけど。んー……」
「やっぱゴスロリのほうが好きなんだ」
千佳は小さく頷く。
「私は、それになりたかったの」
そんなことを呟いていて、レイナにはなんとなくその言葉の真意が分かるような、そんな気がした。ただ、深くは突っ込まずに一言だけ。
「そっか」
気が付くと関東平野を脱したようで、車窓の外の建物のさらに背後に隠れていたのだろう山並みが、今や歩いて辿り着けそうな距離に並び立っている。その手前には、囲まれる盆地に広がる田園風景。これが、いつまでもどこまでも変化なく続く。
「ねえ」
千佳の方から話しかけてきた。
「何かお話してちょうだい。静かすぎてつまらない」
確かに、椅子に座りなおしたり、あっちを向いたりこっちを向いたり。暇をしていそうな挙動をずっとしていた。たまの乗り換え以外、ずっと席で座りっぱなしなのは堪えるのだろう。大人でもやることがないと辛いのだ。現代っ子の千佳には、とてつもない苦行に思えたとしてもおかしくない。
「お話、ねえ」
とはいえ、雑談の話題なんていうのは、急に何か話せと言われて出てくるようなものではない。レイナは暫し逡巡するが、結局こう返す。
「んー。……そういえば、千佳って何歳なの?」
「えっと……。次のお誕生日で、17歳になるわ」
「ってことは、今は16歳?……三宅くんと同い年か」
「誰のこと?」
「うーん。どう説明したら良いのかな……。なんだかんだあって、私に弟子入りした子?」
「何よ、あなたもう弟子なんて取ってるの?」
「色々あったの!っていうか、あんたは学校通ってないの?16歳って、高2の年でしょ?」
問い返すと、千佳は急に黙り込む。目を逸らして、車窓の外を向いてしまう。
なんだか申し訳なく思い、レイナは千佳に声をかけた。
「ごめんね、なんか聞いちゃだめなことだった?」
「いいのよ、私が勝手にやめただけだから」
「……やめた?」
「そ、学校やめたの。小学校の3年生くらいから、学校なんて行ってないわ」
千佳は涼しい口調で言っていた。その表情は、窓の外を向いているせいで見えない。線路は里を離れて山の中に差し掛かっていて、森の木々を眺めているようだった。ずっと都内で、しかも屋敷の中に籠っていたからだろうか、どこまでも樹木の並ぶ森の中というのは新鮮で案外面白いのかもしれない。
「なんで学校やめたとか……。聞いていい?嫌なら言わなくてもいいんだけど」
「単純よ、他の子が気に食わなかったの」
即答だった。千佳はレイナの方を向き直る。
「みんな、お子ちゃまっぽいんですもの。うるさいし、走り回るし、バカだし。太宰も芥川も知らないんじゃあ、お話が通じないわ。そんなのに付き合うのは人生の無駄。だからやめたの」
「はは、私も流石に小学校3年生じゃあ、太宰治と芥川龍之介は知らなかったかもなあ。千佳って、本とかよく読むんだ」
「お母さまの言葉を覚えているわ。本を読むことは、いつかあなたを形作るのだと」
「確かにそうだけど。でも、それで他の子が気に食わないからって学校を休むのは、お母さんも困ってたんじゃない?」
「そんなの分からないわ。お母さまはもう居なかったから」
レイナは目を見開き、思わず千佳と目を合わせる。横に座っている千佳は、伏し目がちでレイナの膝の辺りを見つめていた。
「ごめんね、なんか嫌なこと聞いちゃって」
「嫌じゃないわ。居なくなった人を悲しむのは美しいことだけれど、過去を悲しみ続けるのは何も生まないもの。今の私には朔弥がいるし、他のみんなもいる。やりたいことはなんでもやらせてもらえるし、寂しいわけでもない。……今には、わりと満足しているのよ」
しかし、そう言う千佳の表情はどこか陰って見えた。千佳は目を逸らし、車窓の外に流れる景色に目を戻す。車内には他の乗客はおらず、車輪がレールの接続部を超える時のガタガタという音だけが、リズミカルに流れていた。
「私には、千佳が何を思ってるのかわからないけど」
レイナが口を開いた。千佳は窓の外を眺める視線を再びレイナに戻し、2人の目が合う。
「本当にやりたいことがあるのなら、やってみたらいいんじゃないかな」
目を合わせたまま、2人は静寂の中にいた。千佳はレイナの目を見つめたまま小さく口を開けていて、しかしすぐにぎゅっと口を噤む。
突然、車内にアナウンスが流れる。次の駅が終点であるらしい。車両は緩やかに減速を始める。
「何それ」
アナウンスと被るように、千佳が口を開く。
「私はなんでもできるのよ。私が言えば朔弥はなんでも叶えてくれるもの。あなたの心配することなんてないわ」
千佳の口元は笑っていたが、目元に光はなかった。
終点まで乗って、別の電車に乗り換えて先へ。二人はどこまでも電車を乗り継ぎ、線路をどこまでも先へ行く。千佳はレイナに心を許してきたのか、少しずつ口数が増えつつあった。他愛もない世間話とか、趣味の話とか。そんな談笑の折、突然お腹が鳴る音がした。そして千佳は顔を赤らめた。
「なんか食べようか、朝から何も食べてないでしょ?」
千佳は恥ずかしそうに小さく頷いた。
最初の電車に乗ったのが昼前だったが、もう日は沈みかけていた。千佳は日付が変わったあとの夜食が最後の食事だった。昼食も食べていないし、腹も減るわけだ。
長いこと田畑と山林ばかりが見えていたが、気づけば窓の外には民家が立ち並び始めていた。かと思うと、都内で見慣れているようなビル群が顔を出す。この地方の中枢都市の駅に辿り着いたようだった。
都会であるのは同じであるのだが、街並みの雰囲気が東京のそれとは異なる。綺麗には綺麗だが雑然とした部分もある東京の街に比べると、人が少ないこともあるが、全体的に情報量が少なくすっきりして見える。
周りに人が増えたせいで再び黙り込んでしまった千佳の手を引っ張り、レイナは近くのファミレスに足を運んだ。夕食には少し早いくらいの時間で、店内はわりと空いていた。
適当に料理を頼んだはいいものの、千佳はずっと気恥ずかしそうにしていて、料理が届いても俯いたまま固まっている。
「食べないの?お腹空いてないの?」
千佳は、顔を動かさないまま視線だけ動かして周りを見ていた。
「ほかの人が居るから……」
「ああ、外食初めてなんだっけ」
「……うん」
「まあ別に、誰もあんたのこと気にしてないよ。おいしさのあまり文字通り飛び上がるんでもなければ、好きに食べな」
付け加えるように、やった奴が居たんだよな、とレイナは遠い目をして呟いていた。
一人で食べ進めるレイナを見て、千佳も料理に手を伸ばす。そして、一口。
「んー……」
「どう?初めての外食は」
「油の質が悪いんじゃないかしら。朔弥でももっと美味しいのを作ってくれるわ」
「左様で……。いい素材を使ってらっしゃるんでしょうなあ」
呆れたように千佳に零す。が、一方で千佳は、味をディスっていたにも関わらず料理を口に運ぶ手は止まらない。ちょこちょこと味に文句を付けつつも千佳の表情は楽しそうで、その顔を見てレイナも小さく微笑んだ。
それから、さらに電車を乗り継いでいく。太陽は完全に地平の向こうに顔を隠してしまい、電車の窓の外は真っ暗。相変わらずの田園風景でも広がっているのだろうが、暗くて何も見えない。見えるものといえば、窓に反射する自分の顔だけだ。
疲労と睡眠不足にお腹まで満たされたせいだろう、千佳はすっかり寝てしまっていた。抱きかかえて駅のホームに降り、レイナは小さく息を吐く。
「流石の楓も、ここまでは追ってこれないかなあ」
ずっと辿ってきた路線の終点、大きめの街の中心部の駅。レイナはもう少し遠くまで行く気でいたが、むしろここで一旦止めて良かったのかもしれない。この先は、あまりにも山奥で宿泊施設を見つけられない可能性が高いからだ。
ここは大きな街であるから、既に深夜であったが簡単に宿泊施設は見つけられた。レイナは、腕の中で熟睡する千佳を優しく抱きかかえて、今夜の寝床へ歩く。
明示的にどの駅とかは書いていないのですが、一応は徹夜して時刻表と睨めっこして2人の通った路線はシミュレーションした結果となっております。しかしながら、如何せん鉄オタは通っていない人生ですので、鉄オタの皆さんの智慧に照らすと現実とは何かしらの齟齬が発生している可能性もあります。その場合は生暖かい目で見守っていただけると幸甚に存じます。




