長宗我部千佳の孤独Ⅰ
樫本楓は通勤途中だった。満員電車に揺られながら、スマートフォンでニュースをチェックするのがいつもの日課である。そんな最中だった。
マナーモードのスマホが手の中でバイブレーションを始める。電話が掛かってきたのだ。掛けてきたのは登録済みの番号で、「☆いおりん☆」となっている。楓の同僚、田沼伊織である。
しかし、今は電車の中。しかもぎゅうぎゅうに人が詰まっている朝の満員電車の中だ。こんなとこで電話を取るのはマナーが悪いなあ、と思い、一旦無視。
しかし、切るとすぐにまた掛かってくる。これが2、3度続いて、流石に急ぎの内容なのかもしれないと気になってきた。降りる予定の駅まであと3駅。微妙に待てない距離だ。ちょっとだけ周りを確認してから、小声で電話に出る。
「いおりん、ちょっと待ってよ、今電車の中で……」
『怪盗レイナが出た!!今すぐSNS見ろ!!』
伊織の開口一番のその言葉に、楓は動揺しつつ言われた通りにSNSを開く。楓はあまりSNSとかは触らないのだが、いつもレイナの話ばかり見ているので、そういう関連の話題がタイムラインによく出てくる。そのおかげで、それは楓のタイムラインの先頭に表示されてくれた。
一本の動画。電車の中から撮っていると思われる、車窓の向こうの黒い人影がビルの上を飛び移りながら凄まじい速さで移動している動画。その黒い人の進行方向と電車の線路は斜交しているようで、だんだん電車に近づいてきて、ちょうど電車と接触する瞬間、撮影者が動揺したのだろう、カメラが大きくブレて動画は終わっている。動画がブレる直前くらいで止めると、その黒い人影の姿がかなり鮮明に映っていた。黒いスーツ、黒いマント、黒いマスク。銀色の髪が風を切って靡き、胸元に覗く白いシャツ。まさしく、怪盗レイナの姿だった。カメラに向かってピースサインまでしている。
楓は慌てて電車を降りた。強引に満員電車の人の群れを掻き分けながら。
電話の向こうの伊織に言う。
「レイナの目撃情報をできるだけ集めて!アイツがどこに向かってるか割り出すの!」
『もうやってる!』
焦っている人間は、ここにも1人。柏木朔弥である。
レイナを目の前で取り逃がして、即座に連絡を取ったのは八十夜双谷。端的に発生した事案の伝達、そして対処法の指示。具体的には、樫本楓同様レイナの目撃情報の時系列を調べて行動予測を立てること、それと、千佳の屋敷周辺の警備にできる限りの人員を集めることだった。
朔弥自身も車に乗って千佳の屋敷へ急いでいるのだが、東京都区内の道路は常に混んでいる。それに、あちこちに信号機が待ち構えている。焦る気持ちに駆られる一方、しかし、朔弥は何度も赤信号に捕まって思うように進まない。忸怩たる思いであった。
苛々と貧乏揺すりをしながら、しかし口調は至って平静であるまま電話を掛ける。
「双谷。状況は?」
『さっきも言っただろう。ターゲットは、真っ直ぐ屋敷に向かっている。……あと3分で到着といった所か』
「3分、ねえ。僕の方は、あと5分はかかりそうだよ。おっと、青信号だ。そろそろ切るよ」
『最後に確認したい。殺傷は禁止なんだよな?』
双谷の確認に朔弥はほんの少しだけ逡巡して後、答える。
「ああ、生け捕りで頼む」
『了解した。……本当に、非合理なお人好しだな』
無感情に吐き捨てる双谷の声を聞いて直後、朔弥は電話を切った。
和洋折衷といったふうな趣の、大きな屋敷。然程郊外でもない都内であるにも関わらず、広い庭が付いている。その屋敷の奥、2階角部屋が長宗我部千佳の寝室であった。
時刻は午前9時30分。南向きの部屋の窓を太陽が照らし、カーテンの隙間から差し込む日差しがベッドの上に一筋の光の道をつくっていた。
千佳の朝は遅い。基本的に夜型の人間なのだ。同年代の高校生たちとは違い、学校にも通わず屋敷の中で1人暮らしている。そして、夜な夜なアニメを見るだとか、ゲームを遊ぶだとかして日々を過ごしている。あさ
昨夜……というか、日付としては今日なのだが、千佳が寝たのは午前4時だった。これは別に、今日が特別というわけではない。気の向いた時間に起きて、好奇心と興味の赴くままに趣味と学芸に没頭すると、千佳の場合はだいたいこの時間になるのだ。すると、起きるのはだいたい12時を過ぎるくらいになる。今日もベッドの上の千佳は、静かに寝息を立てていた。
この屋敷において、眠っている千佳を起こすのは厳禁である。ごく一部、千佳とそれなりに親しくしている被雇用者を除くと、それだけで千佳の一声による解雇が決定する。尚、解雇された後の人間がどのような末路を辿るのかは、暗黙に周知される事実となっていた。
今日の屋敷はいつもとは少し様子が異なっている。広い庭には、この暑いのに黒いスーツに身を包んだ人間が集まっていた。真っ黒なスーツにサングラスまで掛けていて、いかにも怪しい風貌の集団である。この集団の先頭のほうで、同様のスーツに身を包んで八十八双谷と林深蘭が二人並んでいる。当たり前だが暑いのだろう、皆一様に額に汗を滲ませていた。
屋敷の庭の大きな門の前で双谷は構えて、じっと遠くを睨んでいた。屋敷の周りには住宅街が広がっており、双谷の目線はその屋根の向こうに向いている。そしてぽつりと呟く。
「来る」
それを聞いた深蘭が臨戦態勢に入り、波及するように黒スーツ全体がそれぞれ拳を構えていく。
怪盗レイナがやって来たのだ。静かな住宅街に、遠くから屋根の上を駆ける足音が聞こえてくる。ついに屋根の上にその姿が覗き、かと思われた直後、レイナは双谷の頭上を馬飛びのように飛び越えていった。
空中で前回り3回転半、地面に手を付いて、その手を軸に足を振り回す。これに蹴飛ばされた黒服が3人。少しふらついたかに見えたが、すぐ立ちなおし、警戒態勢で構えている黒服の中に突っ込む。
「もっと散れ!まとめて蹴飛ばされるぞ!」
双谷が指示を飛ばす。すると、バタバタとぶつかり合いながら広い庭の全体に広がっていく。
しばらくすると一定の間隔に散らばって見通しが良くなった黒服集団だったが、しかし、ザワザワとしていて様子がおかしい。
真っ先に口を開いたのは深蘭だった。
「レイナ。レイナがいない!」
庭に散らばった黒服たち。しかし、その中に怪盗レイナらしき人物は見当たらなかった。
「変装している可能性がある。互いに身元を改めろ!」
双谷は全体に向けて命令し、一方で深蘭には別の指示を出す。
「屋敷の中に逃げ込んだ可能性がある。中を調べてきてくれ。千佳は起こさないようにな」
「アイアイサー!」
元気よく返事をして、深蘭は屋敷の中へ走った。
外の黒服たちの騒乱に対し、屋敷の中は異様なほどに静かだった。屋敷の二階廊下を深蘭は歩きつつ、ジャケットを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外し、サングラスを投げ捨てる。暑すぎるのだ。
手で扇ぎながらゆったり廊下を歩く深蘭は、一人呟いた。
「後は頑張りなよ、怪盗レイナさん」
ちょっと思ってたより長くなりそうなので分割することにしました




