闇愚の境界
「あの、かなたn……奏那さん、一体どこへ……?」
「んー?秘密の場所」
怪盗レイナの衣装に身を包んだ詩華奏那は、田沼伊織の手を引っ張って暗い地下道を歩いていた。東京というのは狭い街だが、それに比して人口も求められる機能も異様に多い。であるから、その地上部分だけではほんの少し面積が不足する。そのため、高層ビルがタケノコの如く伸び続けているわけであるが、街が上に向かって拡張するならば下にも拡張し得るのは自明なことであった。そうしてあちこちに延長され、しかし廃棄された地下通路が幾つか存在していた。それを、奏那は有難く使わせてもらっているわけだった。
「そろそろ……かなぁ?」
奏那は呟く。が、そのとき。通路のどこかから物音が聞こえてきた。誰かが走っている音。このような閉鎖された地下通路の中では音波が拡散することがない。そのため、離れた場所からの音でも響いて聞こえる。
思わず伊織は息を呑む。奏那は大きめに舌打ちをして、伊織の手を強めに引っ張って走る。そして奏那は地下道の端にある錆びた鉄扉の前で立ち止まり、蜘蛛の巣が張っているドアノブにちょっと躊躇して、手を掛ける。蝶番が錆びついているのか扉は重たい。横でアタフタしている伊織に奏那は顎で扉を指し示し、それで伊織が一緒にドアノブを引っ張ることで、ようやく開く。尻餅をついた伊織を引っ張って、これまでの地下道よりもさらに暗い通路へ足を踏み入れていった。
地下の深くのさらに奥。数メートルおきのチカチカしている蛍光灯だけに照らされた薄暗い空間で、奏那は立ち止まる。
「何を……するつもりだ?」
伊織は、ずっと挙動不審である推しの姿に流石に疑念を抱いたのか、ちょっと腰を引いて臨戦態勢という感じで構えていた。
「私を……信じてくれないの?」
「……っ、私は、ずっと詩華奏那というアイドルを追っかけていたけど。だからこそ、あなたには越えちゃいけない線は越えないでほしいと思っている。……ねえ、かなたん?」
奏那はそれに答えず、ただ静かに笑っていた。
遠くから足音が近付いてくるのが聞こえる。近付いてきて音のディテールがはっきりしてくる。足音は一つではない。二つほどある。
「アイドル、ねえ」
奏那が呟く。
「越えちゃいけない線?……私は一体、何なら越えずに済んでいるんだろうね」
自嘲気味に言って、奏那は伊織の方に振り向く。
「いい?私はね……」
最後まで言いきる前に、それは上から来た。
「……ぁぁぁああ!」
ズドン、という鈍い音。何者かが上から落ちてきた、いや、降りてきたようだった。同時に通路の蛍光灯が一斉に落ちた。
明かりが一つもない、真の暗闇。その中で、ドタバタという取っ組み合いの音だけが聞こえる。奏那と、もう一人の女の叫び声。
伊織はスマートフォンを懐中電灯代わりにしようとするが、ここで初めて、どこかにスマートフォンを落としていたことに気付く。何もできない伊織は、ただ取っ組み合いの音に耳を済ませるしかできない。
暗闇の格闘は暫く続き、やがて、苦しそうな呻き声が聞こえて静かになる。かと思いきや、耳をつんざく悲鳴が聞こえて、再び静寂が訪れる。
今、伊織が感じているのは暗闇の冷たさと、まだまだ遠い誰かの足音だけ。足音は次第に近付いていき、すぐそこまでやってくる。そして、蛍光灯が再び点灯する。




