神の与え賜うた試練
限界だった。公衆便所に逃げ込んで、上半身裸になる。暑いというわけではない。奏那のクローゼットには大量の洋服があって、その辺はどうとでもなった。奏那は私と背格好が同じくらいで、サイズとかも問題なし。ただ、私が着る服を見繕う上で、一つだけ問題があった。何かというと、まあしょうもない話で。
「乳首がもげる……!」
胸囲の問題だった。詩華奏那という女はなかなかスタイルの良い奴であるらしく、彼女の下着は私には少し大きすぎた。だから、苦渋の決断で下着を付けないことにしたのだけど。洋服の中で乳首が擦れて仕方がない。
それにしても、東京というのは広い街だ。財布もスマートフォンもない状態で放り出されて、改めて感じる。電車で数分の距離も、歩けば数十分、数時間。しかも一歩歩けば乳首の危機というこんな状態で、どこに居るかも分からない詩華奏那を探せというのか。なんという試練だ。泣きそう。
せめて擦れづらいように、胸を抱えるようにして歩く。アニメや何かの巨乳キャラたちの気持ちが、ちょっとだけ分かったような気がした。
半泣きになりながら、慣れないロングスカートで歩いていた。もう全部かなぐり捨てて全裸で走ってやろうかな、とか考えていたところだった。
「あーっ!見つけ……あれ?」
後ろから女の声が聞こえた。
「楓……!」
私は思わず楓の元に駆け寄る。この時ばかりは、救いの女神のように見えた。後光が差して見える。
「おや?ちょっと、玲奈もしかして……その、付けてない?」
周囲を気にしてか、小声で私の耳元に囁く楓。ありがたいけど、残念ながら後ろの彼には聞こえてしまったようだよ。あからさまにサングラスを掛けなおす、咳き込むなどしている。
「まあ……紆余曲折ありまして。それも含めて、今だけは手を貸してほしくて……。お願い!」
手を合わせて懇願。蠅ではないが、今ばかりは手を擦り足を擦るのもやぶさかでない。
「いいよ、とりあえずどこかで買ってきてあげるから待ってて」
言って、楓はどこかに走り去ってしまった。私は、少し気まずそうにサングラスを弄っている柏木朔弥と二人とり残される。
「あー、その、無事でなによりだ」
どの面下げて言ってるんだか。元はといえばコイツの嘘のせいで始まったことなのに。精一杯怖い顔を作って睨んでやる。朔弥は申し訳なさそうに目を逸らし、サングラスを外した。
「分かったよ、どうせいつか話すつもりでいた。ただ、こんな道端では具合が悪い。この件の詳しい話は、事が一段落してから話すよ。それよりも、多分君も分かっているだろうけど、まずいことになった。かなりね」
「まさか、こっちが盗まれる側になるなんて。完全にこっちの失態ね、これは認めざるを得ない」
「なるほど。君が置かれた状況はだいたい理解できた。それじゃあ君が知らないだろう情報を提供させてもらうと、怪盗レイナが現れたんだ。楓さんの同僚が接触したらしい。ただ、今どこにいるかは分からない」
「分からない?何か手掛かりとかは?」
「手掛かりはないんだけど、彼女が行きそうな場所に心当たりがあってね。楓さんとそこに向かっていたんだ」
「そこって……いや、なんでもない」
ギリギリで言葉を濁すが、朔弥は私の意図に気付いたらしい。
「何か、見たのかい?」
私の顔を覗き込む切れ長の綺麗な目には、何の感情も見えなかった。彼が何をどこまで察しているのかは分からない。私は、まだまだ柏木朔弥という人間のことを知らなさすぎる。だのに、彼と目を合わせ続けていると、一方的に私の情報が彼に吸われてしまうような。そんな気がした。耐えきれず目を逸らして、私はぼそりと呟く。
「なんにも」
数秒の沈黙の後、朔弥は小さく溜息を吐いて「そうかい」とだけ言う。嫌な静寂だった。
「玲奈!これ買ってきたよ!」
楓が戻ってきたようだ。早いな。近くに服屋でもあったのか?
「ほら、これ」
言って楓が差し出したのは……絆創膏の箱。
「はぁ?何これ?」
「時間がないの!贅沢言ってないで、これ!……分かんない?えっとねえ」
楓は絆創膏を一つ取り出して、私の胸元に手を伸ばす。
「うわぁ!分かる、分かってるけど!本気で言ってるの?」
「本気よ、コンビニ行ったけどこれしかなかったからさ。これが嫌ならそのままだけど、いいの?」
「……っ、分かったよ」
朔弥の方を睨むと、流石に紳士で、通行人が多い方から見て壁になるような位置に後ろを向いて立ってくれていた。楓も壁になるように位置取ってくれていたが、なんとも心許ないものだ。今日だけで相当に尊厳というものが失われた気がする。しかし、かくして、私の乳首はひとまずの安泰を手に入れたのだった。




