ここにいるよ
その日帰宅した楓は、凄まじく疲労した様子だった。それもそのはず、怪盗レイナが警視庁に現れた日は、楓は結局帰宅できなかったのだった。そしてその翌日の今日、それも夜が更けてから、ようやく楓は帰ってきた。……いや、ここは楓の家じゃないんだが。
楓は、帰宅するなり寝室に直行し、着替えもせずにベッドに倒れ込んでいた。体力お化けの楓であるが、怪盗レイナと対峙した時の大立ち回りに、恐らく徹夜で始末書でも書いていたのだろう、流石に限界と見えた。
「楓さーん?着替えないとスーツにシワ付いちゃうよ?」
うつ伏せでベッドに倒れていた楓を無理やり仰向けにひっくり返す。それで私は気付いた。楓の体がすごく熱い。それに、ひっくり返して見えた顔は、信じられないくらいに真っ赤だった。
風邪。体温計は40度近くを示していた。
それはそうだ、疲労した上に皇居の堀に上空からダイブ。いつもバケモンみたいに元気な楓とて、人間なのだ。体調の一つくらい崩して当たり前なのだ。
「私のせいだ」
ベッドの横に座り込んで、一人呟いた。
とりあえず、楓を無理やり着替えさせて、汗を拭き取るくらいはやった。介護ってこんな感じなんだろうか。うちのおじいちゃんはまだまだ元気で、そういうのは全然考えたことがなかった。異常体力ジジイでもないと、警視総監なんて務まらないってことだろう。というか、警察という人間はみんなそうなのだろうか。
楓はずっと目を瞑っていて、たまに苦しそうに呻く。悪夢でも見ているのかな。たぶん……レイナに逃げられる夢?だって、寝言なのか分からないが、「待って」とか「行かないで」とか言っていた。こんなんじゃ、薬を買いにも出られないよ。
苦しそうな顔をしていた楓だったが、その手を握ると、なんとなく表情が和らいだような気がした。掌を触ったら握り返してくるところとか、握力の弱さとか。
「赤ちゃんかよ」
右手で楓の手を握ったまま、左手で頬を優しくつつく。風邪のせいで熱を持っている楓の肌は、今にも破裂してしまいそうに見えた。こんなにプニプニしておきながらあんなに大立ち回りして。いくらレイナを捕まえたいからって、無理しすぎだよ、バカ。ちょっとムカついてきて、頬をちょっと強めに抓る。
「……いひゃいよぉ」
「うわぁ!」
楓が起きたようだ。私の手を握っているまま、空いている手で眠そうに眼を擦っている。
「すごい熱だよ。もう少し寝てな」
しかし、楓は私の言葉を無視して重たそうに上半身を起こす。そして、大事そうに私の手を両手で握っていた。
「どしたん?悪夢でも見てた?怪盗レイナに逃げられる夢とか?はは、それじゃあ正夢……」
「玲奈は、」
楓の声帯から聞いたことがないくらいに、細く小さい声だった。
「……どこにも行かないよね」
思わず、20年以上前の記憶を引っ張り出していた。いつも幼稚園の部屋の隅で一人で遊んでいた楓。一緒に遊ぼうと差し出した手に、しかし楓は噛みついた。そのときの楓の顔を思い出していた。恐怖と不安が混じったような顔。一回だけ、ぽろっと言ったのを聞いたことがある。楓は、本当は弟が居たのだという。しかし、流産してしまったのだとか。「そのことで、ずっと悲しんでたみたい」と、楓は言っていた。楓本人はもう当時のことは全く覚えていないようで、母親から伝聞しただけなのだとか。
20年以上前、あのときの楓の表情。それを、今の楓に重ねてしまった。
「私は、ここに居るよ」
言うと、楓は嬉しそうに笑う。そのまま楓は寝てしまった。




