日没直後の千代田区上空
東京都千代田区霞が関2丁目。警視庁本部で、大規模な停電が発生した。
非常用の薄暗い明かりだけの中、樫本楓は走っていた。決して広くない廊下を全力疾走する女。しかし、職員たちは突然の停電の対応に追われて右往左往しており、楓に目を向ける暇もないようだった。
「邪魔!……っ、避けて!もう、みんな私のために道を開けろぉぉお!」
叫びながら、楓は警視庁舎を駆けていた。しかし、何しろ警視庁本部で発生した特大のセキュリティインシデントである。職員たちは無名の新人刑事でしかない楓のために道を開けているわけにもいかない。血走った目の職員たちは耳も貸さずに駆けまわっていた。そして廊下の途中、突然開いたドアに楓は猛烈に顔面をぶつけてすっ転んだ。中から出てきた恰幅の良い職員は、「ごめんよ」と江戸訛りっぽく言って、倒れている楓の横を早足に歩き去っていった。
鼻を擦りながらフラフラと立ち上がった楓は呟く。
「ダメ、間に合わない……!」
そのまま、今しがた開け放たれたドアの中に入る。中はちょっと広めのオフィスで、苛立っている職員たちが突発した事態の対応に追われていた。凄まじい剣幕の怒号が飛び交う中、まだ少しフラフラしている楓は窓際に歩いて行く。明らかに様子のおかしい楓だったが、今は皆そんな楓に構う暇はないらしい。不審そうに一瞬だけ目を向けてから、すぐに目を逸らして手元のタスクに追われていた。
そして窓際、楓は勢いよく窓を抉じ開けた。その瞬間、他の職員たちも楓のおかしい様子に気付いたようだった。しかし、時すでに遅し。
「おい、そこのお前。何やってんだ?」
壮年といった年頃のいかつい顔の男が声を掛ける。その声色には、あからさまに不機嫌の感情が乗っていた。しかし、楓はそれを無視して窓の縁に足をかける。
「おい!何してんだって言ってんだろ!……誰か、ソイツを取り押さえろ!」
声を掛けた男は、楓から少し離れたデスクの前に居た。命令が飛んで、近くのデスクで作業をしていた職員が動き出したが、それよりも楓が窓から飛び出すのが早かった。楓の異様な行動に、オフィス中の職員の怒号の向きがついに一致した。「バカヤロー!」「気でも違えたか!?」「ここ10階だぞ!」などなど、ここでは書けないような反社会的勢力も真っ青の人格否定じみた怒号までもが楓に向かって飛ぶ。それに追われるようにして、楓は窓から跳んだ。
窓を飛び出した楓だったが、別に飛び降りたわけではない。10階の窓から飛び出した楓は、そのまま11階の窓の縁に手をかけた。10階の窓から上半身を乗り出して楓の足を掴まえようとする職員が数人、しかし楓はそんな職員たちを文字通り一蹴、クライミングのように警視庁舎の壁面を器用に登っていく。11階の窓の縁に立って、さらに上に跳び上がり、今度は12階の窓の縁を掴まえる。腕力だけで強引に体を持ち上げ、さらに上の階へ。
警視庁の停電はなかなか復旧する兆しが見えず、窓の中では職員たちが慌ただしく動き回っていた。が、しかし、窓の外にぬっと顔を覗かせる女には流石に驚きを隠せないようだ。楓と目が合った職員は、思わず作業の手を止めたり、足を止めたり、持っていた書類を落としたり。数秒フリーズしてから状況を飲み込み、慌てて窓に駆け寄る。が、窓を開けて楓を掴まえようとする頃には楓はもう一つ上の階の窓に登っている。
楓が14階の窓の縁に到達したくらい、ようやく警視庁内部で情報が回り始めたらしい。当然に停電への対応が最優先だが、手が余っている一部の職員が楓の捕縛に回された。電話に対応しながら楓を睨む者、楓を見つけた途端に素早い動きで窓に駆け寄ってくる者。それらを窓の中に確認して、ようやく楓は自分が置かれている状況に気付く。
「……やばっ!」
それで壁を登る手に力を入れる。しかし、折しも本日は風が強かった。窓から乗り出して楓を掴まえようとする手を回避しつつ登り続け、ようやく地上18階の窓の縁に手をかけようとしたところ。少し手を滑らせたのと強風に煽られたのだろう、警視庁舎は18階建て、あと少しというので気が緩んでいたこともあるのか。楓の両手は空中を掴んだ。そのままバランスを崩し、重力というのは無慈悲なもので、楓は強力に地面に向かって引っ張られた。もはやこれまでか、地上に植えられている木に引っかかれば生還も可能だろうか。
思わず目を瞑った楓であったが、なかなかどうして自分は生きていることに気付く。恐る恐る目をあけると、風に吹かれてぐわんぐわん揺れているが落下はしていない。はてさて、上に目線を向けると、必死の形相で自分の左腕を掴んでいる者がいる。18階の窓から上半身を乗り出した田沼伊織だった。
「バッキャロー……ッ!死ぬ気か!」
伊織は額に汗を滲ませて力んでいる。その汗の量は、いつでも着ている暑苦しそうなコートだけのせいでも、楓を引っ張り上げようと力んでいることのせいだけでもなさそうで、多分どこかからここまで走ってきたのだろう。コートだけでも脱げばいいのに。楓は思う。
「いおりん、ありがとう!いやー、死ぬかと思ったよー」
「いおりん……言うなぁっ!何してんだ、アホ!」
問われて、楓は真面目な顔になる。
「この停電は、絶対にレイナの仕業よ!今はどこに居るのか知らないけど、レイナが警視庁のどこかに侵入しているの!そして、アイツは絶対に屋上から逃げようとする。先回りするの!」
「はぁ?レイナって……怪盗レイナのこと?お前が言ってた、警視庁のデータ盗もうとしてるって話?でも、この停電がレイナのせいって確証もなにも……ああもう、ツッコミどころが多すぎる!っつか、先回りってんなら普通に階段使えよ!こんなん危ないだろ!こんなのなんかの法に抵触するだろ!」
「残念!壁登りを直接禁ずるような法はありませーん!」
「そういう問題じゃなくて!……っ、きゃあ!」
どうやら窓の外に乗り出しすぎていたらしい。伊織の重心は、楓の体重も合わせると、窓の外にあった。そのまま伊織の体は窓べりから引き摺り出され、楓と二人、窓から落下を始めた。
……のだが、どうだろう。二人は無事でいた。強風に煽られながら、二人は空を飛んでいた。いや、二人が飛んでいるわけではない。もう一人、空を飛んでいる人物がいた。その人物に、楓の両足が掴まれていたのだった。
伊織は、大きなグライダーの翼を広げて滑空する彼女を見て、どこか嬉しそうにこう叫んだ。
「出たな、怪盗レイナ!!」
一方で、伊織はレイナに足を掴まれていて、逆立ちのような格好である。余裕がないのか、酷く怯えているようで悲鳴が8割くらいの叫び声を上げていた。
「キャァァァアア!レッ……レレ、レイナ!?レイナって言った!?どこ、どこに居るの!?……イヤァァァアア!!」
伊織は相当に混乱している様子だった。レイナに掴まれている両脚をバタバタさせていて、堪えかねたレイナが怒鳴る。
「バカ、動くな!落っことすぞ!グライダーの耐荷重ギリギリなんだから、せめて大人しくしてろ!」
一方で、楓も叫んだ。
「いおりん、動かないで!今から登るから!」
言って、楓は伊織の腕を逆に掴んでみせる。次に二の腕、そして胸元。……しかし、そこで伊織の着ていたコートが大きく捲れる。思わず楓は叫ぶが、それ以上に混乱している伊織の絶叫のほうが大きい。
しかし、諦めないで伊織を登る手を緩めない。一人の人間の体重がかかるなんて当然想定されていないため、伊織の服は今にも破けそうなほど伸びている。さらに、楓が勢いを付けて飛び登ろうとするものだから、ちょっと見えてはいけないくらいまで服が捲れてしまっていた。怖いやら、恥ずかしいやら。伊織はずっと、どの言語でもない金切り声を上げている。
そして、人体を逆さに見たとき、都合の良いところに手を掛ける場所がある。股関節である。
「ごめん、いおりん!」
「えっ?……イヤァァア!セクハラ!公然猥褻!離してぇ!」
「無理無理!待って、もうちょっとだから!」
「二人とも大人しくしろ!マジで死ぬぞ!……ああ、もう!」
ちょうど、皇居外苑の堀の上に差し掛かったところである。楓がレイナの腕に手を伸ばしたのと、レイナが伊織の脚から手を離したのが同時だった。レイナの手から離れた二人は、放物線を描いて堀の中に落下した。
日没直後、東京駅から伸びる通りにはまだ人の往来が多い。そこに、突然上空から降ってきた二人の警官が堀の中に落下し、必死の形相で堀から上がってくるまでの様子。これが人目を引かずに済むわけがなかろう。それを尻目に、レイナは夜の千代田区上空を悠々と飛び去って行くのであった。
新章の開幕ですね。ちょっと警視庁内部の部屋割りなんてのは分からないので、警視庁に詳しい方のツッコミはご容赦いただきたいです




