怪盗レイナ現る
時刻は19時50分。怪盗レイナが予告した時刻まで、あと10分。
美術館の入り口にあるホールで、樫本楓と田沼伊織を始めとした数人の警官が警備を固めていた。しかし、樫本楓は他の警官たちとは視線を向ける方向が異なり、ずっと壁に掛けられた時計を睨んでいる。
「おい、よそ見すんなー。お前の待望の怪盗レイナさんが現れてくれるんだろ?」
ずっと明後日の方を向いている楓を見兼ねて、伊織が声を掛けた。しかし、楓は目も向けないまま返す。
「だって、まだ時間じゃないんだもん」
「分からないだろ、レイナが時間を守るかどうかなんて」
「守るでしょ、アイツは。そういうところは拘る奴だよ」
「……そう、なの?知らないけど。犯罪者に律儀に約束を守ってくれるのなんて期待できないだろ」
「考えてもみてよ、怪盗レイナなんて名乗って、予告状まで出して。律儀に時間を守るくらいのパフォーマンスはやってくれると思うよ」
「どうだろうね。いつも思うんだが、お前はレイナの何なんだ?」
楓は、時計を睨んだまま「んー」とか唸っていて、結局伊織の問いには答えなかった。
怪盗レイナの予告状については、どこから外部に漏れたのか、ネットの一部ではちょっとした盛り上がりを見せていた。あと数分で怪盗レイナが現れるらしい。そんな話がインターネットの海を流れ、物好きな暇人も居るもので、美術館の前にはそこそこの人だかりができていた。
人が集まってはいるものの、やっぱりそこは現代人らしく、皆思い思いに携帯端末の画面ばかり注視している。ただ、一人の女だけは、その目線を美術館の方に向けていた。銀髪で、帽子を目深に被っている。
そして、19時55分ちょうど。突然、どこからか声が上がった。
「レイナだ!」
同時にどよめきが生まれ、人混みはバラバラと動き始める。
田沼伊織は、美術館の外の野次馬が動き始めた気配を察知したところだった。
「なんだあれ。交通整理って来てないの?誰か行ってきてよ……っておい、楓!」
伊織の静止を聞かないまま、楓は美術館の奥へ走り出した。
結局、警備の人員はあまり集められなかった。警察というのは面倒なもので、一度事件が起きてからでないと本腰を入れて動くことはできない。従って、まだ発生していない怪盗レイナの窃盗に対して動くというのは難しいのだ。既に自称怪盗レイナの犯行は一度発生しているのと、田沼伊織が苦心してくれたおかげである程度の人を集めることはできたが、それでも合計で10人もいない。美術館の入り口と、予告にあった山水図の前にちらほらと人数を配置して、それで終わりだ。
楓が向かったのは、美術館内の女子トイレだった。トイレットペーパーの窃盗が連続していた、あのトイレである。ここには、警備は付いていなかった。トイレ前の廊下全体が、他の場所から見えづらくなっている。
夜間だが、館内は特別に照明が点いたままになっていた。怪盗レイナに怯えた館長は、光熱費が嵩むことよりも、少しでも怪盗レイナの対策になる方が良いと踏んだらしい。しかし、トイレは暗いままだった。楓は、スマートフォンのライトを懐中電灯代わりにトイレの中に踏み込む。スマートフォンの時計は、19時57分を示していた。
洗面台の鏡には、スマートフォンを構えた楓が反射していた。その下には綺麗に磨き上げられた蛇口が並び、横の壁には美術館らしく油絵のような絵画が飾られている。不気味なほどに静かな空間で、美術館の外の喧騒が遠く聞こえる。
楓は、そのまま音も立てずに一番手前の個室の中に入る。そして、耳を澄ませた。暫くの静寂の後、トイレの窓の方から小さな物音が聞こえた。それから物音の主はこう言う。
「そこに居るのは分かってる。出てきなさい」
レイナの声だった。
思わず楓は息を止める。が、楓のいる横の個室のどこかから声がした。
「おやおや、お気付きで?」
男の声だった。その声で出るタイミングを失った楓は、ちょっと泣きそうになりながら必死に声を抑える。楓には、その声の主の男が誰なのかまるで見当が付かなかった。混乱した楓には、ただ状況に耳を澄ませるしかできなかった。




