21 神の峰
大陸を北と南に二分するホルテ連峰、通称『神の峰』。
山々の麓には南北にそれぞれ広大な森が広がり、南の森は『神の懐』と呼ばれ、北の森は『北の最果て』と呼ばれている。
遥か太古より『神の懐』には水の神が棲み、『神の峰』には地の神が棲み、『北の最果て』は黄泉へ続くと伝えられてきた。
人々は神域に踏み入る事を恐れ、決して近付こうとはしなかった。
そして、今尚、その言い伝えは大陸に生きる全ての人間に語り継がれている。
「実際は『神の懐』を根城にする者はとっくに居ない事も、『神の峰』が神ではなく中級妖魔の棲家になっている事も、人間どもは何ひとつ知らぬのだな。……つくづくお気楽な生物だ」
ホルテ連峰の険しい山々の上空を、すうっと飛び回る影が呟いた。
それは、小柄な女だった。
褐色の肌、赤い瞳、短い金の髪、ほっそりとした背中では、蝙蝠のような小さな羽根がハタハタと忙しく動いていた。
じっと見つめる視線の先は、遥か眼下の険しい山々。
「ああ、やはりな。一体、何を考えておるのだろうな……」
赤い瞳が見つめるのは、山々を空間ごと切り裂き現れた、異空間への穴。
驚くほど正確に、『神の峰』に巣食う妖魔の居城ごと真っ二つにしている。
慌しく幾人もの妖魔が出入りしているのが見えた。
何をしているのか、もう少し近寄って観察しようと思った時だった。
「何が“やはり”なのか、聞かせて貰おうか」
唐突に背後で声がした。
ゆっくり振り返ると、自分より更に上空、腕を組んだ大きな男が見下ろしていた。
黒と金の混じり合う長い髪を風に靡かせ、ぽっかりと穴が開いたかのように真っ黒な目は、壮絶な殺気を放ちながらも薄く笑みを浮かべている。
何時の間に。
気付かぬうちに背後を取られた。
けれど、さほど驚く事でもない。
「空間の亀裂は、お前達の棲家も暴いてしまったか。こそこそと隠れていたと言うのに、とんだ災難に巻き込まれたものだな」
くっくっ、と笑う女は、男の殺気に怖気づく事も無く、酷く楽しそうだった。
男の殺気が一段と増す。
「貴様が、アレをやったのか」
「さあなぁ。お前達、そんな事も解らぬのか」
低く唸る声にも、女は愉快そうに笑う事を止めない。
「何者だ。何が目的だ」
言いながら次第に前屈みになる男の目の下には、幾筋もの漆黒が流れ、やがて全身をタトゥのように這い回る。
みるみる男は大型のサビ猫へと姿を変えた。
「ほう。お前、山猫かなにかだな。面白い」
「喋る気は無いようだな。では俺の好きにさせて貰う」
言うが早いか、女に飛び掛る。
しかし、それを予知していた女は軽々避けては宙を飛んで逃げ回った。
『神の峰』上空を物凄い勢いで飛び回る二つの影。
あと少しで爪がかかる、という所で、するりと逃げられる。
悔しそうに唸る大猫を尻目に、ひらひら逃げ回る女の視線は相変わらず山肌に覗く異空間の穴へと向いていた。
だがそれも少しの間の事、すぐに興味をなくし、視線をサビ猫に移した。
「お前、それで全力か。『神の峰』の番犬にしては、大した事は無いのだな」
ああ、犬では無く猫だったか、失礼。
そんな言葉に、大猫の怒りが爆発した。
瞬間、閃光が走り、光の矢が大量に女目掛けて降り注いだ。
「殺さぬよう、と思っていたが、もうやめだ!!」
男の怒声が響いた。
光の矢は女に全弾命中したらしく、光が引くと、全身に光の矢を受けた女が四肢を広げて宙に貼り付けになっていた。
「醜く弾けるがいい!!!」
その声に応じるかのように、女に刺さった矢が、再び閃光を放った。
大猫が満足気に喉を鳴らし、くつくつと笑う。
しかし、光が収束するにつれ、その笑いは風に掻き消えるほど小さくなり。
「何故、だ……!?」
驚愕する声が漏れた。
そこには、先程と寸分違わぬ姿で艶やかな笑みを浮かべる女がいた。
両手を優雅に広げたまま、嘲りの眼差しを大猫へ向けている。
「この程度であったとは、な。お前はペットか何かか」
辛辣な言葉に、再度男の怒りに火がついた。
「ぬかせぇぇぇ!!!」
猛然と女目掛けて飛び出し、その細い首に狙いを定めた。
ぐしゅりという確かな手応えに一瞬哂いそうになり、直後驚きに呻いて振り返る。
確かに手応えがあった。
なのに、なにひとつ、自分にその痕跡が残らない。
獲物の臭い、獲物の味、何もかもが、そこには存在しない。
ただ、一瞬感じた感触だけがリアルだった。
「何故、だ……!?」
優雅に手を広げた女は、傷一つ無く。
楽しそうに大きく体を揺らして哂っていた。
「ああ、本当に。残念な事だなあ……」
くつくつ哂う女の姿が、ぐにゃりと歪む。
「!?」
驚愕に目を見開く男の前で、嗤い続ける女の体がみるみる形を失い、やがて宙に溶ける様に霧散してしまった。
先程まで確かに感じていた“何か”も、全てが消え。
『神の峰』の遥か上空では、言葉を失い呆然とする大猫だけが残された。
「そうであったか……あやつらにも世代交代の波はあるのだなぁ」
寝転がり、ぼんやり空を眺めていた王様が、ぼそりと呟いた。
それはいつもの王様では無かった。
肌は血色のまるで無い真っ白に、金の瞳も、今は薄い灰色。
頭髪は唯一変化が無く、白灰のまま。
まるで王様から色素が抜け落ちたかのような状態だった。
「思ったより事態は深刻では無かったな。まったく、心配して損をした……」
つっと宙に手を伸ばし、掌を上にして、何かを受け取るかのような仕草をする。
そこへ、さらさらと何処からとも無く赤い砂が落ちてきた。
砂は王様の手を滑り落ちると、また宙へと消えていく。
「あの程度が番犬であれば大した事はあるまい。ああ、あれは猫であったか」
ふふ、と低く哂う王様の肌が、みるみる褐色に、瞳にも金の輝きが戻る。
宙から降り注ぐ赤い砂が消える頃、王様は、いつもの王様に戻っていた。
「それにしても、少し疲れたな」
うーん、と伸びをして、寝返りを打つ。
そろそろ皆のもとへ戻らないと不味いだろう。
しかし、思いの外、王宮の屋根の上は居心地が良い。
「昼寝でもするか……」
本当はそうしたい所だが、今“視た”事も含め現状を皆に伝える必要があるし、引き続き結界の修復もしなければならない。
後回しに出来そうに無い事は、充分承知していた。
しょうがないな、と体を起こし、バリバリ頭を掻く。
ふっと頭を上げた王様が、唖然とした。
屋根の切れ目から半分だけ顔を出し、じっとこちらを見ているセレネと目が合ったからだ。
無表情がこれ以上なく不気味感を煽って、良い感じに怖さを盛りたてている。
「…王様、なんで其処にいるの」
お前こそ、何時から其処にいた。
しかし、驚きのあまりそのような言葉も出て来なかった。
思わず黙り込む王様に構う事無く、セレネがヨチヨチと屋根の上を歩き出した。
「…ここ、気持ちいいわね」
きょときょと周囲を見回し、ほう、と息をつく。
質素な平屋作りとはいえ、これでも王宮。
特別高い場所は無いが、それでも屋根の上はそれなりに良い眺めだった。
「…あ、そうだ」
はっと王様を振り返ると、セレネはポン、と手を叩いた。
いそいそとその場にしゃがみ、きっちり正座すると、三つ指を突いて恭しく頭を下げる。
そして、息を整え、すうっと息を吸い込み。
「…お帰りなさいませ、王様。お風呂にします?お食事が先?それともわフガっ」
唐突に何を始めたのかと見守っていれば、衝撃の言葉が飛び出そうになり、王様は咄嗟にセレネの口を塞いでいた。
「何を言うつもりだーっ、お前っ、意味解っているのかっ」
セレネの口を塞いだまま、がっくんがっくん左右に揺すり、問い質す。
王様は、少々乱心気味だった。
思わず手加減なくセレネをがっくんがっくんしているうちに、セレネの目が異様に険しさを増し、その小さな手が口を塞ぐ王様の手をチョイチョイ指差す。
はっとした王様が慌ててセレネの口を塞いでいた手を離した。
両手を挙げ、ざざっと体を離し、思いっきり白々しい笑みを浮かべて、『悪意はありません』とアピールする。
そこに来て、セレネの口の周りがなんとなく赤い事に漸く気が付きギョッとするも、それを抑えて平静を装った。
セレネはしばし無言で王様を睨んでいたが、すぐに口元に手を当て、困惑の表情を浮かべて俯いた。
「…おかしいわね」
聞いてたのと随分違う反応だわ、どうすればいいのかしら。
そんな事を呟いている。
やはり誰かに入れ知恵されたか、とイラっとするも、セレネの気が先程の暴挙から逸れた事に王様はホッとした。
「…やり方を間違えたのね、きっと」
また、ポンと手を叩いている。
いそいそと正座をしようとするので、王様は慌ててセレネの両脇に手を突っ込み、半ば持ち上げる事でなんとか正座を阻止した。
まるで子犬のように持ち上げられたセレネは、キョトンとしている。
「間違えるとか、そう言う問題では無いのだ。お前、それを誰に教わった」
「…使用人の方々が、『これで疲れも吹っ飛びます!』って」
はぁぁ、と溜息をつく王様を不思議そうに見ていたセレネは、何がいけなかったのだろう?と考えていた。
王様は『色々な事情』で『お疲れ』だと聞いたので、どうしたら『疲れが取れる』だろうかと使用人に相談したところ、教えて貰ったのが先程のアレである。
使用人達が声を揃えて『お薦め』してきたので、これでバッチリ王様の疲れを癒してあげよう!なんて考えていたのだが。
どうしたことか、王様はさっきよりも疲れているように見える。
何故??と考えるセレネをひとまず下ろした王様が、はぁぁ、と溜息をつきながらも小さな頭をポンポンと撫でる。
「疲れか、そうだな。お前に『肩もみ』して貰うと疲れが飛ぶな。だから、それで充分だぞ?本当だぞ?」
頼む、頼むから、おかしな事を真に受けて実践するのは止めてくれ。
心の中では、土下座ぐらいの勢いで切に願っている。
解ったのか解っていないのか、セレネはコクコク頷いている。
「…でも、肩もみって意外に疲れるのよね」
こないだ久しぶりにやった時、筋肉痛になったのよ。
手をニギニギさせて、セレネが呟いている。
じゃあ、もう別に、何もしてくれなくていいから。
さっきのような奇行に走るのだけは勘弁してくれ。
そう思う王様。
だが、どうせセレネの事だから、おかしな情報を仕入れては、また意味不明な事を実践するのだろうな、と思う。
なんだか、疲れが倍増したような気がした。




