リベンジ
緊張感から解放されたからか、それとも落胆からか、ため息が漏れた。
しばらく2人とも何も言わなかった。
暗い廊下の先を、2人揃って見つめていた。
何かを言おうとすると、そこに言葉が吸い込まれてしまうようだった。
結局、金子先生の言うとおり、自分で本を買うことにしようと思う。
当たり前のことだ。
ただの趣味に、部費を使うことはできない。
巧がそう納得しかけたとき、
「わたし、もう一回行ってきます」
猫実さんがぽつりと言った。
「えっ」
驚いている間にも、猫実さんはさっき出たばかりのドアに向かって歩き出そうとする。
「ちょっと猫実さん!ストップ!」
巧は慌てて制止する。
猫実さんは言葉通りピタリと歩き出そうとしたポーズで固まる。
変なことで真面目だ。これでは話ができないじゃないか。
「こっち向いてください。」
ゆっくりと彼女の身体がこちらに向けられる。
職員室から漏れ出す光を彼女の顔の涙が反射していた。
くっきりと照らされた、その悲痛に満ちた表情に言葉を失った。
まさか彼女が泣いているなんて思いもしなかった。
どうしてこの人はこんなに必死なんだ。
言葉にならないその問いを遮って、猫実さんが口を開いた。
「わたしは、悔しいんです。」
震え、涙で濡れた言葉はそれでもはっきりと巧の耳に届いた。
「頑張っている人が、報われないのが許せないんです。わたしよりたくさん書ける人が、理不尽に辛い思いをするのが許せないんですっ。」
暗い廊下に声が響いた。
猫実さんの目から、息使いから強い思いが巧の心に流れ込んでくる。
初めてのことだと思った。こんなにも本気で人の感情と向き合うことは今までなかった。いや、できなかったというべきか。
障害のために、周りの人達と距離を取って生きてきた。
彼女はそれでも全身全霊で踏み込んできているのだ。
ただ彼女の激しい感情に驚いていた。
「確かに、辛いけど、受け入れるしかないんだ。不幸なことではないって言ったでしょう?」
「でも、幸せだ、とは言わなかったじゃないですか!」
また言葉に詰まる。
「わたしには」
猫実さんは続ける。その立ち姿は影がかかって凛としている。
「不幸じゃない、って無理矢理言ってるように聞こえるんです。
周りに迷惑をかけないようにして、必死に自分を押し殺しているように見えたんです!
さっき、金子先生と話しているときも、あなたは心から笑っていなかった!」
どこまでも真っ直ぐな瞳が巧に向けられる。
「辛いのに、『助けて』って言えないのは不幸なことじゃないんですかっ!」
猫実さんも苦しそうに、声を必死に絞り出すように吐き出した。
巧にもわからなかった。障害とは何なのか、普通とは何のか。誰にもわからないようなことを話しているような気がした。
「だから、ちゃんと溜めないで頼ってくださいよ。
あなたがそうしてくれれば、わたしだって本なんかどうでもいいんです。
映画なんかどうだっていいんです。
ただ、諦めることが何よりも悔しいんです。
巧さんを諦めさせた何かが、何よりも憎いんです。
巧さんが、誰かを楽しませたいから小説を書いてるって言ったのを聞いた時、わたしは頑張って欲しいって思った!
ただ好きで書いてるだけのわたしとは違うと思った!」
一言も聞き逃す余地を与えなかった。
全ての言葉がしっかりと巧の耳に届いた。
それは驚くべきことだ。
普段は聞こえない部分を自分で補って会話をしているのだが、その必要がない。ということは、猫実さんは、かなり大きな声で話し続けてくれているのだ。
そのことは巧に、自分の耳が人より悪いということを忘れさせた。
「そんな人でもダメだったらわたしは、どうしたらいいんですか?」
最後は息が途切れて、猫実さんが体を折って咳き込む。
そしてそのまま、咽せ返る。
その痛々しい彼女の姿が、巧の目に、心に突き刺さった。
「泣かないで」
思わず歩み寄って、彼女の両肩を軽くゆする。
彼女を信用しきれずにいた自分を心から悔やんだ。
猫実さんにはきっと信念があるんだろう。
努力を信じているんだろう。努力をしないで諦めるのが許せないんだろう。
こんなにも自分を思ってくれることが嬉しかった。そんな自分が恥ずかしくもあった。
「ごめんなさい」
出来るだけ穏やかに、つられて泣かないように。
猫実さんが顔を上げてこちらを見る。
目に溜まった涙が、美しく光る。
「僕は、不幸だったみたいだ。」
言葉にするとチクリと胸が痛んだ。
「でも今は、違う。」
目の前の少女を見つめる。
握り締められた拳と、肩幅に開かれた足。トレードマークのポニーテール。涙で光る、意志の強さが宿る目。
「猫実さんがいる」
そう言うと、彼女は少し驚いたような顔をした。
やがて嬉しそうに、はにかんで笑った。それが尊いものだと今はわかる。
「もう一回、行こう。」
ふと、頭にある考えが浮かんだ。
もしかしたら神様は、努力して報われると思う傲慢さに腹を立てて、自分から、能力を、才能を奪ったのかもしれない。
治るはずのない障害に立ち向かって、才能がないと言われたことに身を削って取り組んで。
まるで、不運なヒーローを演じているようだ。
それだって、
面白いじゃないか。
自分の出来ないことに立ち向かうからこそ、強く生きられるのだから。
「今度はしっかり、目的を話そう。」
沢山経験を積んで、面白い小説を書くこと。
それが、耳の悪い自分にできる唯一の社会奉仕だと思う。
2人で並んで職員室のドアの前に立つ。
ノックしてから開ける。
「失礼します」
ちょっと声が震えた。
初めて金子先生に、小説を持ってきたときのことを、思い出した。
そういえば、猫実さんと初めて会ったのも職員室だったな、と思い出す。
あからさまに不快そうな先生たちの視線をスルーして金子先生の元へ歩く。
足音に気づいた金子先生がこちらを不思議そうに見る。
またなんかあったのか?そう言っている目だ。
さっきと同じ話題なんで安心して下さい。
「あの、部費で買うということでもう少しだけ、考えてくれませんか」
巧は言った。はっきりと話したから、いつもと声が違って聞こえた。
すると金子先生は肩を上げて、ため息をついた。
「諦めが悪いなあ。君たちは」
ショートカットの髪をかきあげ、挑戦的に微笑んだ。




