この世で最も美しい
「あの、猫実さん」
「何でしょう」と、猫実さんがこちら側を向く。返答が速い。
お助け部に戻っても、猫実さんは興奮が冷めてないようだ。いつもより目がキラキラしている。
「あのー、試写会で見る映画って原作とか出てないかな」
「もう出てますけど、ネタばれになっちゃいませんか?」
猫実さんが首をかしげる。ポニーテールもついでに動いてクエスチョンマークを強調する。
「先に読んでおきたいですね。そうしたらセリフとか聞き逃しても大丈夫でしょう。」
そう言うと猫実さんは複雑な表情をした。
どう答えたらいいのかわからない、といった顔だ。
「いや、僕なりに、100パーセント楽しみたいからですよ!」
慌てて取り繕う。
「そうですか」猫実さんがしみじみとうつむきながら呟く。
「そういう付き合い方もあるんですね」
神経を周知させて、やっと聴こえる声だ。
「まあ、障害ってそういうもんでしょう」
「でもっ!」軽く言ったはずなのに猫実さんは必死に反論する。
こちらを見つめる目が切実に迫ってくる。
「何も知らないで、初めて映画で観るっていう楽しみもあると思うんです」
悲しそうな声がキンと心に染み込む。
彼女自身の問題ではないのに、心配してくれているんだろう。巧だって、そういう楽しみがあることはわかっている。その上で、原作を読もうとするのだ。内容が理解できなければ、元も子もない。
しばらく何を言えばいいのかわからなくなった。
気まずい。初めて猫実さんと会った頃に戻ってしまったかのようだ。
自分は何をして欲しいのか。ただ難聴であることを思い出して欲しいだけだったのかもしれない。だとしたらそれは、ただの不幸自慢だ。誰も幸せになれない。
「すみません」
沈黙のあと、思わず口から出た言葉だった。
「え?」猫実さんは本当に理解できないような顔をする。哀れみで眉間にしわが寄せられ、目は強く見開かれている。
「わざわざ、言うことじゃなかったですよね。」自分にも、彼女にも確かめるように言った。
「今度からは、自分で本屋さんとか行って確認します。」
だが、猫実さんは唖然としたままだ。さすがに空気を悪くしてしまったようだ。また、何もない時間が流れる。
その静けさに心が締め付けられる。
ときどき、ただの会話でこんな行き止まりにたどり着いてしまうことがある。
コミュニケーションが下手なのだ。物理的に人と話せない。そして、会話した経験が少ないから、いざ話せるときになっても、うまくいかない。
それでも、何かを言うとしたら、
「不便なんですよ。不幸じゃない。ただそれだけです。」
最後はからりと笑って見せた。もうこんな話はやめよう。いつも通り猫実さんが面白いことを行って、自分が振り回される。それでいい。
突然に、猫実さんの中の何かが変わる気配がした。
「ちがう」
怒気をはらんだ声が空気を切り裂く。乱雑な切り口で、明確に意思を示す。
ぞわり、と得体の知れぬ迫力に肌が泡立つ。
「それは、絶対に不幸だ」立ち上がり彼女は言った。
猫実さんは怒っていた。彼女がここまで声を荒げたことがあっただろうか。
「ぜったいに不幸だ!」ピリリと音が彼女の体内で共鳴した。
放たれた声は、巧ではなく、別の何かに向けられているようであった。この、状況そのものに怒っているようだった。
ダン、と猫実さんが右手で机を叩いた。
穏やかな彼女だからこそ、その行為が強烈な痛みを伴って、心に焼き付いた。
「許せない」
そう言った彼女の顔は歪んでいた。
巧は何も言えない。
ただ目の前で仁王立ちする猫実さんを見ていた。
必死で、状況を説明する言葉を探す。
こんなに怒った猫実さんを見るのは初めてだ。
「 、、、ください」
しばらくの沈黙の後、何か言われた。突然のことだったので、聞き取れなかった。怒りで意味が押しつぶされているような、声だ。
呆然としていると、何気なく机の上に置いてあった手が掴まれた。
「立って下さい。行きましょう」
「は、はい」
巧は立ち上がった。
どこに?という質問は飲み込んだ。というよりも、かき消された、という方が正しいかもしれない。
すると、さらに強く手が握り閉められる。暖かさはあまり感じなかった。ただ、激しい感情とは対照的に、柔らかかったことが、少し巧を安心させた。
ガクンと体が引っ張られる。
猫実さんに手を引かれて歩き出す。
気がつくと、部室の外にいた。鍵なんか掛けてないだろう。
前にもこんなことがあったなと思い出す。
速足に歩く彼女に必死で追いつこうとする。
手が離れないように。一歩ごとに揺れるポニーテールを追いかける。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。」
心の底から押し出したような声で、猫実さんは言った。
か細く、強い感情が一筋、手から伝わる。
猫実さんは本気なんだ。
その言葉は夜桜先輩が放つもののように、抽象的かつ正確に世界を形容していた。
さりげなく、猫実さんは空いている方の手で目の周りを拭った。
もっと早く頼るべきだった。
もっと早く頼ってもらいたかった。
「助けて」って言えばよかった。深刻じゃないふりをしてても、心のどこかではずっと痛がっていた。
向かい合いながらも、すれ違った思惑を、どこかに行ってしまった正義を、追いかけるように速足で進んでいく。
どうしょうもない世界への怒りだ。
それが自分の中の痛みを思い出させた。
それをエネルギーにするように、もしくは足掛かりにするように、歩く。
「ありがとう」腕を引かれながら、彼女の後ろ姿に声をかける。
気づいてくれて、思い出させてくれて。
「どういたしまして」
猫実さんのテンプレートながら、最適な返答。「お礼を言われたってまだ、終わってませんから」
正当なる怒りは美しい。たぶん彼女のものは、この世で最も美しい感情だ。
すっかり暗くなってしまった空を見上げる。
どこに向かうのか。
聞かなくてもいい気がした。
きっと、猫実さんは間違ってない。




