ありがとう
何かに没頭するというのは楽しいものだ。その間は他の何にもとらわれることはない。そしてその心地よさというものは集中が解けてから初めて感じることができるのである。
巧は目の前の紙にひたすら判子を押していた。ノルマである枚数の束はだんだん低くなり、判子を押してある方の束はだんだん高くなっていった。
初めて入った生徒会室の香りはにはもう慣れてきた。お助け部も含めた7人が判子を押す音が聞こえる。その他にも雑談も聞こえるが内容までは聞こえない。となりに座っているねこざねさんは黙って真面目に判子をポンポンと押している。
45分ぐらい経っただろうか。巧は自分に課された分のアンケート用紙に判子を押し終わった。こんな単調な作業でも達成感が湧いてきた。机の左側に置いてあるすでに判子が押されている紙の束をトントンと立てて整えると巧は会長の机の方に持って行こうと立ち上がった。
「もう終わった?早いね。」山崎会長は巧が立ち上がった気配で顔を上げた。
「あ、はい」巧は会長の机の方に歩いて言ってアンケート用紙を机の空いているところに置いた。
山崎会長の机はアンケート用紙以外にも様々な書類やら文房具やらで散らかっていた。他にも様々な仕事があるのだろう。会長の多忙さを考えると尊敬の念が湧いてくる。
「じゃあ猫実さんのも手伝って」と会長が言ったので巧は席に戻って、ねこざねさんのまだ判子が押されてないであろう紙の束を少し上からとりわけた。とりわけるときに座りながらだと、彼女に近づくことになるのでドキドキしたがなんとか落ち着かない手で紙の束を自分の前に持ってくる。
「あ、どうも」ねこざねさんは少し頭を下げた。
「いえいえ」巧は早速、気を静めるために作業に集中する。友達なんだからもっとリラックスしてもいいんじゃないか。ちらっとそう思ったが別に今のままでもいいとも思った。
結局700枚分全てが終わる頃にはもう時刻は午後5時になっていた。
「みんなお疲れ」肩を回しながら山崎会長は疲れを吐き出すように言った。
「では、わたしたちは部室に戻ってます。またいつでも手伝いますのでなんかあったらよろしくお願いします。」ねこざねさんは仕事が終わったせいか爽やかな顔をしている。
巧も仕事をやり遂げた嬉しさで自然と心が軽くなる。多分表情にも出てるだろう。
「どうもありがとう。浅野君もどうも」
大きな会長用のデスクに座りながら片手を上げて山崎会長はお礼を言う。
「どういたしまして」巧も片手を上げて返事をする。後輩としては馴れ馴れしいかもしれないが、山崎会長はその動きが面白かったのかニコニコと微笑んだ。
生徒会室をあとにして、部室棟に戻る途中、
「いやあ、今日も働きましたねえ」
とねこざねさんが嬉しそうに言う。
「うん」巧は両手を上げて伸びをしているねこざねさんを見た。そして自分ものびのびとした楽な気持ちになった。
夕日がオレンジ色に二人を照らす。
きっとこれを求めていたんだ。
誰かに必要とされている。その事実が不安定な自分を確かに勇気づけてくれた。それがなんと嬉しいことだろう。
今まで人を助けるなんてことは難聴の自分にはできないとばかり考えていた。でも今日は違った。会長がありがとうと言ってくれた。それだけでまた明日も頑張れるような気がした。
そんなことを考えると
「まだ終わりじゃないですよ。下校時刻の6時半やりますから。」とねこざねさんが横槍を入れてきた。いたずらそうに笑っている。
「そりゃないよおー」思わず愚痴が漏れる。
いやもう今日はいいでしょ、完全に終わった会話してたじゃん、まとめに入ってたよね?
巧は少しうんざりした。
さっきまで爽やかだったのに、やっぱり不安定である。




