第四章 戦争編 ⑦
「――あれは?」
自分に与えられた仕事を一つ終え、双眼鏡を覗きこんで高みの見物を決め込んでいるルシル。
そんな彼女の目にある人物が止まる。
「あのトンガール軍の隊長、顔を真っ赤にしてなにか叫んでるけど……あれ、こちらの三倍以上の戦力で攻め込んできていることを棚に上げて『遠距離攻撃ばかり卑怯だぞ! 正々堂々斬り合え!』とでも言ってるのかしらね?」
もしそうであるならば、随分と勝手な言い草である。
相手の手の届かない距離から一方的に殴り続けられるならば、あえてそれを止める理由などあるはずないではないか。
「中世の戦争なんて弓や投石の撃ち合いで勝負が決まると言っても過言ではないくらいなのに……」
事実日本の戦国時代でも合戦での死因の大部分は刀や槍ではなく、弓と投石などの遠距離攻撃である。戦国後期になると更にここに鉄砲が加わることになるが、鉄砲が魔法に置き換わるものの、こちらの世界の戦闘の死因も日本の戦国時代の数値と大した違いはない。
確たるデータの裏付けがある以上、そこに力を注ぐのは指揮官としては当たり前の話だ。
しかし、それを完璧にこなせるかはまた別の話。
「現状で考え得る最高の結果……。あの女、なかなかやるわね」
他人を褒めることなどほとんどないルシルが思わず口にしたその言葉――。
それは総指揮官であるカタリナへの最大級の賛辞であった。
「それに比べて……」
ルシルは残念そうな視線をトンガール軍へと向ける。
「このままただ手をこまねいているだけなら、何も出来ないまま全軍敗走もあるわね」
何度も言うが、トンガール軍司令アルマークは無能ではない。
彼の失敗は、アンリエスト軍が緒戦でここまで遠距離攻撃に特化してくると思っていなかったことであろう。
その戦法は、最初互いに弓や魔法で相手を牽制し、その後は直接近接戦闘で斬り合うというこちら側の世界の常識から大きく逸脱していたからだ。
しかし、その常識というやつが曲者である。
常識に盲目的に従うということは、自ら試行錯誤を放棄しているともいえる。
そしてその結果の積み重ねが、目の前の光景なのである。
「――ん?」
ルシルは僅かに目を細める。
まるで彼女の言葉を聞いていたかのように、不意にトンガール軍が動きを見せたからだ。
「トンガール軍の騎馬隊が動いた? 撤退……ではないようね。騎馬の機動力を生かして苔の生えてない位置まで移動してから川を渡るつもりかしら。まあ、今のように闇雲に突撃を繰り返すだけでは被害が増えるばかりだから懸命な判断ではあるのだけれど……」
問題は、その程度の策などとっくに湊によって読み切られているということであろうか。
「とっとと現状に見切り付けて撤退してしまえばいいのに……」
自軍の進撃を最も阻んでいるのが敵軍の攻撃ではなく川の中の苔であること。既に大量の命が失われていること。自分たちが圧倒的大軍であること。敵が川を挟んだすぐ目の前にいること。トンガール王の気性から考えて何も出来ないまま敗走した場合命の保証がないこと。おそらくこれらの要因が絶妙に絡み合って敵将から撤退の選択肢を阻んでいる。
そう、これはあれだ。ギャンブルで大金をすった奴がそれを取り戻そうと次のレースで更に大金をつぎ込んでしまう……あれに感覚が似ている。
違うのはそこにベットされているのが『金』か『人の命』かということだけ。
トンガール軍は今の段階であまりにも多くの命を犠牲にしている。し過ぎてしまっている。今この場で撤退してしまえば確かにこれ以上の被害を防ぐことは出来るだろう。だが、それでは既に失われた数万の命は何の意味も持たない単なる犬死にとなってしまう。もしそれに何らかの意味を持たせたいと思うならば、一つでもいいから何か形に残る明確な結果を出さなければならない。
既に費やした犠牲を無駄に出来ないからこそ、それを取り戻さんと更に多くの人命を費やしてしまう。そして結果として何の利もなく傷口を大きくするばかり。
正に負の堂々巡り。典型的な敗者の論理である。
結果、いたずらに味方の命を消費するばかりだった。
損切りのタイミングを見誤ったトンガール軍司令部の将たちは、揃いも揃ってギャンブルの才能には恵まれていないらしい。
とはいえ、その本人たちに関しては、敗北の責任を取らされようが無能の烙印を押されようがあくまでも己の為したこと。自業自得と言える。
悲惨なのは、有無を言わさずそれに付き合わされた前線の兵たちである。
「相変わらずこの世界は人の命が安すぎる。全く、何千年経っても進歩のない……」
嘆かわしそうに呟かれたその言葉とは裏腹に、トンガール軍を見据える彼女の瞳は冷ややかな光をたたえたまま。
常識的なことを口にしてみたが、実際なところ湊以外の人間が何人死のうがルシルの心は動かない。
僅かな例外といえるのは地球に残してきた親友の少女たちくらいなものだ。
まして今回の相手はこちらが招いた訳でもない、侵略目的で国境を侵してきた敵国兵である。
使い捨ての駒として悲惨な死に様を晒しているから一見可哀想に見えるが、所詮彼らもトンガールという大きな盗賊団の一味である。
アンリエストの民の財産を奪い、女を犯して、略奪の限りを尽くさんとする気満々の彼らがここでどれほど無様で惨めな躯を晒そうと、同情の入り込む余地など始めからある訳がなかった。
いや、違う。
むしろここで徹底的に叩き、すり潰し、骨の一片から魂の一塊に至るまでアンリエストを敵にする恐怖を植え付けないといけない。
彼らが今後二度とアンリエストに侵攻しようなどと思えないように。
それこそ王や領主の命令や、歪んだ宗教観による扇動すら意味をなさないレベルにまで徹底的にだ。
とはいえ、それが簡単にいかないのが狂信者である。
『ナトーヤ教の信者は、現世で苦しんで死ねば死ぬほど来世では幸せになれる』
信じられないかもしれないが、これがナトーヤ教の公式の教義である。
ルシルから言わせれば正直頭おかしいとしか思えないのだが、残念ながら本人たちは真剣にそう信じ込んでいるのだから仕方がない。
――今苦しいのは来世幸せになるために必要な試練だ。
――現世で苦しんだ者ほど来世での幸福が約束される。
――だからどんなに苦しくても神のために尽くし、十字架に祈り、教えに従いなさい。
完全に宗教の名を借りた奴隷製造装置である。
では実際にナトーヤ教の司祭や高職にある者たちが教えの通り清貧で苦行に満ちた生活を送っているのかというと、当たり前であるがそんなことはない。
金を集め、酒を浴び、暴食をし、女に溺れる。
正に酒池肉林。
それこそ下手な貴族では到底真似できないような煌びやかで贅沢三昧の生活を送っている。
そんなあからさまに生臭である彼らがどうして普通の信者たちから糾弾されないのか?
普通の感覚を持っていれば浮かんで当たり前の疑問である。
しかし、そこには極めて正当な理由がある。
即ち、彼らの神であるナトーヤ自身がそれを認めているからだ。
いや、むしろ神自らそれを推奨していると言ってもいい。
トンガール教の教義では、『ナトーヤ教を国教にしている国家の王家や貴族、教会の聖職にあって贅沢をしている者は皆、前世で言葉では言い表せないほどの苦しみを乗り越えた聖人たちである――』ということになっている。
――彼らが今贅沢をしていられるのは前世でその分苦しんだからである。お前らも次の世であんな風に贅沢をしたかったら今の世はひたすら苦しみに身を任せて血の滲むほど国や教会のために働き、神のためであれば惜しみなくその命を捧げよ。十字架に多く己と異教徒の血を捧げた者ほど来世での幸福が約束される――。
……なんとまあ完全なるご都合主義。
普通に考えれば『そんな訳ないだろ!』と嘲笑まじりに切り捨てられる狂人の戯言である。
だが、それこそ物心のついたころからそう刷り込まれてしまっている信者たちは、どう考えても詭弁でしかない聖職者たちのそんな言い訳を完全に信じ切ってしまっている。というか、詐欺師側である聖職者たち自身ですらそれを真実だと信じ込んでしまっている。
いくら狂信者の国だからって、みんながみんな頭っからそんな馬鹿げた教義を信じるはずがない……と普通なら思うだろう。
どんなに来世での幸せを担保にしようが、教義では試練ということになっている現世での苦しみを乗り越えることは容易ではないからだ。
ではどうしてナトーヤ教の信者たちはそれほどまでに盲目的にその神を信じることが出来るのだろうか?
誰もが抱くこの疑問には、実は明確な答えがある。
彼らの信仰する唯一神ナトーヤ、それがこの世界に実在しているからだ。
これを地球人が聞けば馬鹿げた話だと笑い飛ばすかもしれない。
だが、本当に遺憾なことながら、それは事実である。
いや、より正確に言うならば、ナトーヤ神が最後にこの地上に降りたとされるのはかつて神竜を討ったといわれる数千年も前の話であり、現在は天界に坐しており地上に直接降臨したという話は長らく聞かない。だが、実際信者たちに対しては今でも天からの声という形で神託を降ろしている。
教団によるトリックとかそんな残念なものではなく、本物の神託である。
その頻度は定期的というほど頻繁ではないが、それでも現在成人している信者であれば、少なくとも一度は体験している筈だ。
一般信者はその程度であるが、高位の聖職者たちはもっと頻繁に神の声を聞いていて、その指示に従って教団運営を行っている。
そして、この神は時として直属の使徒を派遣して神敵に天罰を下すことすらある。
実際に神がいて、来世を約束して、自分のために祈りと苦しみを捧げろと要求してくる。
おまけに逆らうと手先である使徒を派遣して力づくで言うことを聞かせる。
これではナトーヤ教を信じるしかないし、殺されたくなければ従うしかない。
この神威を以てナトーヤ教団とそれを国教とする国家は国民を都合のいい狂信者として使い潰しているのである。
結果、トンガール王国の国民は皆貧しく、王家や貴族、聖職者だけが贅沢三昧な暮らしを送り、しかしそれだけの明らかな格差を見せつけられながらも決して反乱が起こらない。
そんな、抑えつけられ、搾取され、苦しみに身を埋めた一般信者たちの唯一の憂さの晴らしどころ、それが自分たちよりも弱い立場である亜人を迫害することである。
ナトーヤ神は亜人たちを認めていない。
つまり、亜人たちには何をしても許されるし、むしろ彼らを苦しめることはナトーヤ教の教義的には良い行いということになるのだ。
自分たちが受けた苦しみや貯めこんだ憂さを吐き出す捌け口としてこれほどうってつけのものはないだろう。
――あいつらよりもマシだから、多少苦しくても我慢しよう。
そんな一般信者たちの息抜きのために貶められたのが亜人たちだ。
人ではなく、『亜』人。
ヒトとは異なる、ヒトには至っていない者……という意味だ。
そもそもナトーヤ教成立前はヒト種も妖精種も蟲人種も獣人種も巨人族もその他の種族も皆一纏めで『人』だった。
ヒト種以外を人でないと定義したのは他でもないナトーヤ神。
先に触れた信者の苦しみへのガス抜き以外にもそのようにした、あるいはせねばならなかった明確な理由があったかなかったのか、それは文字通り神のみぞ知ることである。
だが、そのナトーヤ神が軽々しく決めたその教義によって、以後数千年に渡り亜人たちは苦難の歴史を歩むこととなった。
これで本当に神なのか? あるいは、本当に神であったとしてもそれは邪神もしくは悪神の類ではないのか?
当然そのような疑問が湧いてくる。しかし、残念ながらこれにも明確な答えは今のところはない。
いずれにせよ、自らを神と称するナトーヤなる存在が、この世界で少なくとも数千年にも渡って真の支配者として天に君臨しているのは紛れもない事実なのである。
ナトーヤと名乗る神、その正体に関しては、湊がある程度の推論を立てているし、説明を聞く限り恐らくそれで正解なのではないかとルシルも思ってはいるが、今ここで優先しなければならないのはナトーヤ神の正体を暴くことではなく、そのナトーヤ神に虐げられている亜人たちを救済することある。
ルシルにとってはそれすらどうでもいい話であるが、そのルシルの心を寄せる肆十無湊という青年は、決して他人との約束を違える男ではない。
例えそれがどんなに困難なことであろうが……それこそ十人足らずの部下と未知なる世界に渡ることとなろうが、神と名乗る者と敵対することとなろうが、彼のその意思が曲がることなどあり得ない。
彼の半身たるルシルは、誰よりもそのことを知っている。
だからこそ、心許せる親友たる椎名麻耶たちを地球に置いてまでこの世界に付いてきた。
全ては、彼の力になるために。
そして、その結果としてルシルは今ここで戦況を見つめている。
敵飛竜部隊を全滅させた今、ルシルの立場からすれば、本音ではすぐにでも湊の元へ移動したいところだ。
しかし、飛竜部隊を全滅させるなんていうのは言ってみれば暇つぶし程度の労力でしかなく、あくまでもそれはルシルに与えられた本来の任務のついで。
用事があって都庁に来たからついでに展望台でお茶をしておこうか――その程度のことである。
そんなルシルに与えられた本来の任務。
ここにいるのが彼女でなければならない本来の敵――それは、別にいる。
そして彼らこそが、飛竜部隊を超える敵方の真の最高戦力。
最強にして最恐。怒れる神の意思の発現にして神罰の代行者。
ナトーヤ神の代理人であり神の正義の執行人。
「……来たわね」
待っていた敵がいよいよその姿を現す。
その体に薄っすらと光を纏った純白の神官服。
胸の中央に輝くのはナトーヤ教のシンボルたる銀の十字架。
ふんわりとウエーブのかかった柔らかそうな金髪が、風に靡かれてサラサラと音を立てている。
そのシルエットはまるで端正に作りこんだギリシア彫刻のように雄々しく、その一方で個々のパーツは透き通ったガラス細工のように繊細で美しい。
正に降臨した神を髣髴とさせるような、そんな美しい青年であった。
「飛竜部隊を全滅させたってぇ奴はてめぇか?」
黙ってさえいれば厳かな雰囲気を感じさせる彼のその佇まい。しかし、一度口を開けばその顔には明らかな好戦的な狂気が宿る。
正義を司る神の使者。
それは即ち絶望を振りまく死の代理人。
彼らはその喜悦を以て首を狩り、快感を以て魂を貪る。
戦闘を愛し、殺戮を好み、親子を、兄弟を、夫婦を、そして恋人にある男女を、己の欲望のままに引き裂く。
他人の幸せを奪うことに、他人を不幸のどん底に叩き落とすことにその喜びを見出す人でなし。
神の名を借りて無辜の人物を虐殺し、愛する人の前へその首を並べる。
そして絶望に打ちひしがれている妻を、姉妹を、恋人を、物言わぬその亡骸の前で犯し尽くす。
他人を地獄に落とすことで性的快感を得る。
神の名の代弁者を名乗るにしてはあまりに残虐。あまりに下劣。あまりに外道。
その神々しい見た目とは裏腹の、明らかな精神異常者。
今代の使徒たちはたった一人の例外を除けば全員がこの男と同類の人の皮を被った狂人。
そして、目の前の男がその例外でないことは火を見るよりも明らかだった。
情けをかける必要など、どこにもない。
「ええ、そうよ。飛竜部隊を全滅させたのは私。そしてすぐに貴方も殺してあげる。後悔しながら死になさい」
青年が発する異常な雰囲気に一切飲まれることなく、氷のような瞳を向けると、ルシルは静かに言い放った。
「はっ、おもしれぇ。飛竜どもを潰されて司祭どもが泣きついてくるから来てみれば……一番強そうな気配を発してるのが小生意気そうな嬢ちゃんたぁな。んで、てめぇは俺が誰だか分かっててそう言ってんのか?」
獲物を狙う猛禽類の如く目を細める青年。
「名前は知らないわ。でも十三人いるナトーヤの使徒の誰かでしょ? どうせ何も出来ないままみじめに殺されるんだから、生かすに値しない下種野郎だと分かっていれば私にとってはそれで十分よ」
「カカカ、偉大なる神から選ばれた使徒だと知ってなお俺を殺すだと? おもしれぇ、おもしれぇよお前! そんな澄ました顔をしてられんのは今の内だ。倒した後は着てるその服全部ひん剥いて、お前のお仲間たちの見ている前でボロボロになるまで犯し尽くして、あまりの快楽に狂い死にするまでヒイヒイ鳴かせてやる。見た目だけは最高だからさぞかし観客にも楽しんで貰えるだろうよ。楽しみにしてな!」
「……相変わらずナトーヤの使徒は品がなくて反吐が出る。そういえばナトーヤもあなたと同じような下劣極まりない屑の中の屑だったわね。類は友を呼ぶとはよく言ったものだわ」
「屑の中の屑だとっ! てめぇ! 我が神に対して知ったようなことを!」
「知ったようなことを? 違うわよ」
ルシルは目の前の青年を嘲るようにクスクスと嗤う。
「知ったようなことではなく、知っているのよ。そう、使徒であるあなたたちの誰よりも良ぉっく、ね……」
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