第三章 内政編 ① 正直者の奴隷商 前編
「たった一ヶ月の間にこの街も随分変わったにゃ。街並みもそうだけども、なによりも人々の活気が全然違うにゃ」
しみじみと呟かれたノワールの感想に、セリネも「そうね」と相槌を打つ。
「魔の森の黄金竜が退治されたからかにゃ?」
「ええ、それもあるかもしれないわね」
セリネは小さく頷いてみせる。
クレッサール王家第四王女カタリナ・デュ・クレッサールがクレッサール王国から独立し、アンリエストの地に新たな国、アンリエスト王国を興した――――。
クレッサール王家から正式に発せられたその知らせは、アンリエストの住民のみならず西方諸国に住まう者全てにとって晴天の霹靂であった。
しかし、彼らの驚きはそこで終わらない。
続けざまに新女王カタリナから発せられた、魔法帝国神無公爵四十無湊による黄金竜アリアレインの討伐の知らせ、そしてカタリナと四十無湊との結婚、更には夫たる四十無湊への正式な王権譲渡の声明――。
立て続けに発せられた耳を疑うこれらの発表に、西方諸国は一時大混乱に陥った。
この一連の出来事に対しての反応は、賛否様々だった。
ダルムス大公国とロンジエン帝国からは祝辞が発せられ、トンガールやヘムガール両国からは予想通りというべきか強い反発の声が上がった。
クレッサール王国、そしてアンリエスト王国双方ともに前者についてはその好意を素直に受け取って謝意を返し、後者については、内政干渉であるとしてトンガール、ヘムガール両国の主張ともに全て突っぱね、彼らの主張には一切取り合うことはしなかった。
不満を発した両国も、内心は苦々しく思えどそれ以上の追及は出来なかった。
クレッサール国王がクレッサール王国の領土を子供たちにどう相続させようが、そして娘の配偶者に誰を迎えさせようが勝手なのは、誰の目にも明らかであったからだ。
一方で、被支配民であるアンリエストの住民たちからは概ね歓迎の声が上がっていた。
今までは貴族の流刑地同然に扱われていたこのアンリエストにクレッサールの王族、それも国民から人気がある第四王女自らがやってきたことで今までの支配者とは明確に異なるのではないかという希望が持てたことと、彼女の口から自分たちの生活の安全を脅かしていた最大の懸案事項である黄金竜の討伐が正式に公表されたからである。
黄金竜の討伐に関しては一部では懐疑的な声も上がっていたが、カタリナ自身がアリアレインの縄張りであるこのアンリエストに居を構えたことが何よりもその事実を証明していた。
そして、現実問題として、彼女がこの地にやってきてから一度も黄金竜の襲撃事件は起こっていない。
紛れもないその事実こそが、かつてないほどのアンリエストの活気を生んでいたのだ。
だが、黄金竜の討伐――それはあくまでも今の活気を生んでいる要因の一つに過ぎない。
それだけでこれほどの活気が生まれるほどアンリエストの闇は薄くはなかった。
「…………やっぱり一番は街に巣食った害虫たちが駆除されたからだろうにゃあ」
「ええ、そうね。……私もそれが一番だと思うわ」
互いに手を繋いで笑顔で通りを歩いていく獣人の子供たちの姿を優しい視線で見送りながら、セリネはそう呟いた。
かつてはクレッサール王国の一地方に過ぎなかったこのアンリエスト地方。
それが今やこの世界で最も新しい国家、魔法帝国神無 アンリエスト王領――通称アンリエスト王国の首都である。
かつてこの地に存在した巨大国家アンリエスト帝国の首都だった都市だけはあり、今なおその街並みには歴史と風格を漂わせているのだが、度々襲ってくる黄金竜による破壊の痕跡と、防ぎようのないその強悪な暴力から逃れるように都市を脱出した者たちによる大幅な人口減によって、在りし日に比べると随分と寂れた印象を受ける街になってしまっていた。
五十万人超が適正値である規模の都市から半数以上――実に三十万人もの人口が失われてしまった――と言えば、いかにこの都市が閑散としてしまったかが分かってもらえるであろう。
クレッサール王国の貴族たちの間で出世の墓場とまで呼ばれ、忌避されたのも無理はない。
当然そのような領地にやってくる領主に有能な者などいるはずもなく、そんな輩が領民の生活やその身の安全になど細かく心を砕くはずもない訳で、都市の治安などはもはやあって無きがごとしであった。
そんなこの地にカタリナと婚姻関係を結ぶことでアンリエスト公爵ラムセルに替わる新たな支配者となってやってきたのが、四十無湊と名乗る黒髪黒眼の隻眼の青年王であった。
だが、重い税を搾り取り、己の私腹を肥やすことしか頭になかったかつての支配者が失脚したことによって、領民一同諸手を上げて新たな支配者を迎えたかというと、残念ながらそのようなことにはならなかった。
黄金竜のお膝元であるこの地を与えられるような貴族は、問題を起こして厄介払いに左遷されてきたような者ばかりで、しかも代を重ねるごとにその質は悪くなっていく一方。
そんな彼らが王としてこの地にやってきた青年に望んだことといえば、せいぜいが「せめてあのラムセルよりはマシな人物であってくれ」という程度のものであった。
つまり、このアンリエストの住民は、誰も新しい支配者であるこの青年に期待など抱いていなかったのである。
そして、その中でもこのアンリエストの都市の大多数を占める亜人たち(二級市民権を持つとはいえ、所詮はヒト種とは同等の権利は与えられないまま、結局は彼らに搾取されて苦しい生活を余儀なくされている……)にはその傾向が特に強く見られた。
新しい支配者に希望の光を見出すことに窮するほどに、彼らは理不尽に幸せを奪われることに慣れすぎていた。
絶望することに――慣れすぎていた。
だからこそ、彼らはこの地に新たな王としてやってきたという青年が即日打ち出したその布告を、にわかには信じることができなかった。
一、魔の森を含むアンリエスト地方全てを魔法帝国神無 アンリエスト王領――通称アンリエスト王国の領土とすること。
一、現在その領土内に居を構える者は全てアンリエスト王国の国民となること。
一、アンリエスト王国の平民はその性別、種族を問わず全て平等であること。
一、犯罪奴隷を除いた全ての奴隷制度を廃止し、奴隷の身分であったものは皆平民となること。
一、国民が所有していた奴隷はいったん国が適正な価格で買い取り、しかる後に開放すること。
一、国家の許可なき奴隷の所有およびその売買は一切禁止とし、これを破った者は犯罪者として処分すること。
一、犯罪奴隷を含め現在奴隷の身分にあるものはその奴隷になるに至った経緯を全て精査しなおし、正規の手段によらない経緯で奴隷の身分へと落ちた者へは相応の保障を為し、また正規の手段によらず他者を奴隷の身分へと落とした、またはその画策に参加したものはこれを犯罪者として処分すること。
一、この布告が発せられた後、精査が終わるまで他国への出入りを一時制限する。ただし、商人たちの商取引に重要な支障が生じないよう、出入国に緊急性が求められると申し出があり、内容的に妥当だと認められた者に関しては優先的に国からの精査を受けることができる。
一、アンリエスト王国の国民は例え国外であったとしても奴隷を所有または売買することは許されない。ただし王の特別な許可があった者にのみ例外的にこれを許可することがある。
一、上記の内容いずれかに違反し、または違反したことがある事実を隠蔽しようとし、もしくは精査から逃れようと画策し、あるいは上記の内容を利用して不正に自己の利益を得んとしたものに対してはこれを厳罰に処することとする。
これは要するに、今日から平民はいかなる種族であっても平等ですよ。この国の中では奴隷の所有も売買も禁止して奴隷の身分の者は開放しますよ。現在奴隷を所有している人からは適正な値段で国が買い上げますよ。そして他者を攫ったり貶めたりして無理やり無実の者を奴隷の身分に落とした者、落としたことがある者は犯罪者として裁きますよ。ということだ。
これには湊の口から「亜人たちが平等に過ごせる国を作る」と事前に聞いていたセリネですら驚きを隠せなかった。
亜人たちの国を作るということから身分制度にかなりの大鉈を振るうことは予想できてはいたが、ここまで徹底したものだとは思わなかったからだ。
湊が目指す国の方向性を事前に聞いていたセリネでさえこの調子なのだから、この布告を突然耳にすることになったアンリエスト住民の驚きと混乱たるや想像を絶するものだったであろう。
だが、これも国民にその内容に対する理解が深まっていくにつれ、徐々に驚きや戸惑いといった感情から歓喜のそれへと変質していった。
その内容こそ今までの身分制度に喧嘩を売る革命的なものであったが、それを受け取った側の大多数にとっては奴隷や二等市民からの解放を意味し、そうでないヒト種にとっても普通に生活をしている限りは現状維持に過ぎないのだから積極的に反対する理由にはならない。
そうでない者がいるとすれば、それは亜人たちをヒト種によって支配されるべき種だと規定しているナトーヤ教徒の敬虔な信者くらいなものだが、そもそもそんな凝り固まった思想を持つものなら亜人たちが多く住まうアンリエストになど最初から居を構えてはいない。
この都市に住まう人口の八割が亜人や奴隷たちで構成されており、残り二割の内の半数以上はヒト種であっても差別されている亜人たちとさして変わらない生活を送る貧しいものたちである。
つまり湊が出した布告はこの国の大多数によって好意的、あるいは消極的賛成の意見によって迎えられたことになる。
従って、発せられたその布告を目にして反発心を抱いたのは、全体総数の一割にも満たない極一部の者たちだけ。
そしてそのほとんどがこの街の支配者階級にあった者たちであった。
ヒト種としてこの街で特権的な地位と利益を得ていた彼らにとって、奴隷や亜人と身分が同じになるということは看過できない大きな問題である。
しかし、彼らにはそれに抗議することよりも更に優先させなければならない大きな問題があった。
布告の中の奴隷制度に関わる一連の内容に対する対処――である。
耳聡い者は発せられた布告の内容を耳にすると、すぐさま行動に移した。
ある者は一刻も早くこの国から脱出せんと荷物をまとめ、またある者は国から行われるであろう精査をかわすために一時的に所有している奴隷を人目のつかないところへと隠し、またある者はなどは、気に入った娘を手元に置くために奴隷商人に攫わせたり、或いは自分が見受けするために故意に相手を破滅させたり、役人に手を回して無実の罪を着せて気に入らない者を奴隷に落としたりした過去の犯罪を隠蔽するために関係者に金を掴ませた。
ひどい者になると開放された奴隷が平民となった後も再び自分の元へと事実上の奴隷となって戻るよう暴力をたてに脅しつけたり、家族の身の安全などの弱みを使って脅迫するなどという手段に訴えるものまで現れる始末だった。
各々で取る手段はまちまちであったが、一つだけ彼らに共通することは大人しく布告の内容に従う気がないということである。
もちろんアンリエストにいる全ての者がこの布告に違反したわけではない。
というか、そもそも所有している奴隷を国が適正価格で買い取ると言っているのだから、素直に差し出せばそれが仮に奴隷商であったとしても損することにはならない。
むしろ売れ残りを含めた在庫全てを一気に処分できるのだから万々歳であっただろう。
だが、彼らのほとんどはそうしなかった。
もっと正確に言うのならば、表面上は命令に従ってみせ、裏に隠れて何とかそれに違反しようとした。
なぜならば、彼らは故意に他者を貶めて奴隷の身分に落としたり、奴隷を手に入れるための人攫いに関わったりした後ろ暗い過去があるため、正規の手段では精査を潜り抜けることができない者たちだったからである。
結果から言うと、湊たちの精査が終了したのち、問題なしとして残った奴隷商はアンリエスト中に六店存在した中でたったの一軒。
奴隷商に限らずアンリエストで商売していた大店あるいは上流階級の者の中で精査から生き残ることができたのは、アンリエスト全体の一割にも満たない富裕層の更にその半分以下であった。
「あれは傍から見ていて痛快だったにゃ!」
というノワールの言葉が示すとおり、隠蔽工作が完了したからと意気揚々と国の精査を受けた者たちが、その悪事を暴かれて次々と自滅していく様は正に見物だった。
アンリエストの上流階級の半分を地獄へと追いやった湊の精査であるが、その手続き自体は恐ろしいほどに簡素なものだった。
何しろ係官の待つ部屋に入り、その部屋の中央に設置されている手のひらに収まるほどの大きさの乳白色の半透明な珠の上に手を置いて、「あなたは現在奴隷を所有していませんね?」「あなたは過去に人攫いに関わったことがありませんね?」「あなたは過去に無実の人間を貶めて奴隷の身分に落としたり、またはその身を害したりしたことがありませんね?」……などと係官から聞かれる簡単な質問全てに「はい」と答えるだけの簡単なものである。
所要時間は一人五分にも満たない。
質問に全て答え終わった者は係官の指示で部屋の右側か左側いずれかの扉から退出するように指示される。
しかし、正にこここそがその者の運命の分かれ目であった。
質問に答えた対象の手元の珠が一回でも赤く光ったものは右側の扉から退出し、全て青く光ったものは左手の扉から退出させられる。
そして左手の扉から退出したものはそのまま開放されて帰途につくことになり、右側の扉から出たものはそこで待ち受けていたセリネたちに拘束され、そのまま牢屋へと直行させられる。
回答者の真偽を見破った種、それはもちろん上に手を置かされることになった乳白色の半透明な珠にある。
「真実の珠」と湊たちが称するこの宝玉は、手を置いた者の言葉が真実だと青く光り、偽りだと赤く光る。
この珠の真偽の判定は絶対的なもので、仮に精神魔法などの手段で質問を受ける対象に精神支配を施し、偽りの記憶を埋め込むことによってこの珠の判定を狂わせようと画策した場合でも、この珠に触れた時点で対象に施されたいかなる精神作用を持つ魔法も解除されてしまうため、事実を偽ることは不可能なのだという。
湊たちの母国である魔法王国神無の裁判所でも正式に採用されているという正に恐るべき魔道具であった。
しかし、この「真実の珠」によって捕まった者は彼ら富裕層だけではなかった。
精査を受けた者の中には国が一時的に奴隷を買い受け、その後に開放するという布告の制度を利用して悪事を働こうとするものもいたのである。
どういうことかというと、布告の通りに奴隷解放が進められるなら、犯罪奴隷でない者は国が買い受けた後で必ず平民として開放されることになる。
この制度を逆手に取れば、布告が発されるまでは平民であった者を精査が行われる前に便宜的に一時的な奴隷にして、それを国に買い取らせることで労せずして金を儲けることもできる。
一度奴隷に落とされた者もすぐに平民として開放されるのであるから、売った者と売られた者が国から受け取った金を山分けすればWIN×WINの関係が成立する。
もちろんこれはれっきとした詐欺行為。重罪である。
しかし、そんな彼らの行動も残念ながら湊の想定の範囲内であった。
それは布告に記された最後の一文「あるいは上記の内容を利用して不正に自己の利益を得んとしたもの」という記述に見て取れる。
詐欺を画策した者たちはその一文に該当するとして裁かれることになった。
余計なことをしなければ裁かれることもなかったのに、なまじ小賢しい知恵が回ったがために結果的に自滅してしまったわけだ。
そう考えると憐れなものである。
やはり正直なのが一番なのだとセリネは思う。
そしてそれを端的に表しているのがとある商人の逸話である。
◆◆◆
私の名前はコルドバ。
アンリエストで唯一生き残った奴隷商である。
もちろん人の身を売買しているのだから他人からはいいようには思われない。
なにしろコルドバ自身が自らの職業についてよい印象をもっていないのであるから、他人から後ろ指を指されるのは仕方がないと諦めていた。
しかし、奴隷商の息子に生まれついたのから仕方がない。
両親が旅先で盗賊に襲われ、コルドバは若くして親の残した店を継ぐことになった。
店は順風満帆とまではいかないが、それでも彼と家族、そして二人だけいる従業員が普通に生活できる程度には稼ぎを出すことは出来た。
そんな平凡な暮らしが出来れば十分だとコルドバは思う。
だが、その一方で自分の商いにどこか後ろ暗いものを感じてしまうのもまた事実だった。
奴隷商とは他人の運命を金でやりとりしているようなものだ。それは決して他人に誇れる類のものではない。
しかし、この世界は必ずしも正論だけで回っているわけではない。
コルドバに子供を売ることによって何とか冬を食いつなぐことができた家族がいる。
奴隷として己の身を売ることで借金を返済し、命だけは助かった者がいる。
奴隷として身を売ったことで野盗に身を落とすことを防げた者だっている。そして野盗が一人減れば、その者が襲う筈であった被害者も減ることになる。
この必要悪がなければ直接的、間接的に無辜の命が失われてしまうような事例が確実に存在していたはずなのである。
とはいえ、そんな彼らにコルドバが出来たことといえば、せいぜいが奴隷に対する扱いの評判の悪い人物との取引を避けてあげることくらいであった。
そんなある日、この都市を支配していた貴族が失脚し、新たにやってきた青年がこの地に新しい国家を打ち立てた。
そして即日、奴隷制度の廃止と奴隷売買の禁止を言い渡したのである。
好んで選んだ職業ではなかったが、事実上の廃業を余儀なくされるその布告にコルドバは戸惑った。
コルドバが商品として所有していた奴隷は全て布告どおり適正価格(向こうは値引き交渉すらしてこなかった)で国が買い取ったため当面の資金に困ることはなかったが、彼には養うべき家族も、そして従業員もいたためいきなり職を奪われて先の展望が見えずに途方に暮れることになった。
とはいえ、家族のために奴隷に身を落とす子供の姿や、夫の作った借金を返済するために奴隷になる妻の姿などを、もう見なくてもいいんだというどこかほっとした気持ちが心の片隅にあったことも否定はできない。
そんな中、ついに運命の日がやってきた。
それまでコルドバは奴隷となる本人やその家族が自ら自分の店に足を運び、その身を売ることになった事情を聞いた上でこれはもう止むを得ないと判断した場合にのみ商いを行っていたし、罪も借金もない人物を攫ってまで商品を仕入れようとする(なにしろ誘拐してくれば元手がタダだ)行為には手を貸したこともないし、この先もそのような行為に手を染めるつもりも全くなかったため、国から行われた精査にあっさりと通った。
コルドバにとっては当たり前のことであったが、気づいてみたらこの都市に六軒あった奴隷商で無事精査を通過したのは自分だけであった。
後から聞いたところによると、他の奴隷商たちは皆人攫いにも手を染めていたらしい。
なんと愚かなことをしたのかと同業者たちの愚行を嘆きはするが、何の罪も借金もない者の幸せを私利私欲のために一方的に奪うような行為を率先して行っていた者に対して同情する気にはとてもなれなかった。
愚直に商売を行っていたため同業者たちのような因果応報ともいえる結末を迎えずに済んだが、さりとてこれから先の飯の種が失われたことは疑いようのない事実。
国に奴隷を売った資金で何か新しい商売を始めようにも、あいにくと生まれついての奴隷商というコルドバの知識と能力は人の売買というごく狭い世界でのみ発揮される呪われたものであって、いきなり他の商品に手を出したところであっという間に手持ちの資金を使い果たして破産することになるのは目に見えている。
かといって、今の蓄えではどんなにきりつめたとしても老後の生活まで自分や家族を養っていくのにはほど遠い。
さて、どうしたものかと己の部屋で一人思案の海に潜っていたところで、不意にコルドバに客が訪ねてきたと娘がどこか興奮した様子で自分を呼びに来た。
奴隷商を廃業した自分に今更客など訪れる筈もない……といぶかしがりながらも客を待たせているという店先に顔を出すと、そこで彼を待っていたのは明らかに上流階級と分かる身なりの良い黒髪黒眼の隻眼の青年だった。
青年の顔を見た瞬間、思わずコルトバは息を飲んだ。
娘があれほど興奮するのも無理はない。
商売柄あらゆる人と接したし、その中には当然容姿に優れた者もたくさん存在していた。
しかし、目の前にいる青年の美貌は正に別格だった。
全身全てのパーツを神々によって丹精こめて作り上げられたかのような圧倒的な美しさ。
それは人の美醜は外面的な容姿で決められるものではないという持論を持つコルドバをして、思わずこんな人間が現実に存在していいのかと疑問を抱いてしまうほどの美貌であった。
唯一欠点を挙げるとすれば痛々しくも右目を覆う眼帯の存在であるが、彼が身に着ければそれですら装飾品のごとき輝きを放っているかのようであった。
「あなたが奴隷商のコルトバさんですか?」
ともすれば絶世の美女とも見間違えてしまいそうになる彼のその薄い唇から発せられた声は、間違いなく青年男子の発するそれ。
「ええ、私がコルドバです。正確には『元』奴隷商ですが……」
少々やさぐれた口調になってしまったが、それでも青年の雰囲気に圧されることなく即座に返答を返したのはコルドバの商人としての矜持がなせる業であったのかもしれない。
「……それで、私に何か用ですか?」
いぶかしげな視線を青年に向ける。
奴隷の売買を禁止されている今、コルドバにできることなど何もない。
そんな自分が必要とされるとするならばやはり奴隷がらみとしか思えない。国から隠した奴隷を匿ってほしいのか、はたまた奴隷の密輸にかかわらせようとしているのか。いずれにせよ碌な用件とは思えなかった。
「あなたを見込んで頼みたいことがあります」
そう切り出してきた青年に「そらきた」とコルドバは思わず身構える。
そして青年の口から発せられた次の言葉、それはコルドバの予想していたものと大きく違わぬものであった。
「実は、あなたには他国へと赴いて貰って、その地で奴隷を買い付けて来ていただきたいのです」
にこやかに紡がれたその言葉を聞いた瞬間、『やはり』という苦々しい思いとともに思わず身を硬くする。
「もっ、申し訳ありませんがお『あなたは断りませんよ』」
「お断りします」と続けようとしたコルドバの言葉を遮って青年は言った。
「どっ、どうしてですか?」
コルドバの質問を受けて青年は静かに微笑んだ。
繊細で、思わず見惚れてしまいそうになる。
――だが、それは悪魔の美しさであった。
「どうしてかって? それはあなたのことを詳しく調べさせていただいたからです。ええ、断言してもいい。あなたは決して私の提案を断ることはないでしょう」
「私のことを……調べた?」
青年の言葉の意味を掴みかねて思わず反芻する。
――と、そこでようやく彼の言葉の裏にあることに思い当たり、そして、その内容に戦慄する。
恐ろしさのあまり、コルドバは自分が身体の芯から震え上がり、全身から血の気が瞬く間に引いていくのを感じていた。
自分のことを調べたということは、当然自分の家族や従業員たちのことも調べたということだ。
つまり、彼の要求を自分が受けなかった場合、自分の周りにいる者たちの身に危険が迫るのではないか――。
そう考えるとうかつな対応をするわけにもいかない。
とはいえ、このまま犯罪に手を貸そうものなら遠からずお縄にかかってしまうだろうことは目に見えている。
精査の場で係官から簡単な質問を受けたたったあれだけのことで何が分かったのかはコルドバには分からない。だが現実として、発せられた布告を守らず違法行為に手を染めたものがことごとく捕まっていることを考えれば、仮に目の前の青年の脅しに屈して悪事に手を染めたとて決して幸せが長続きすることはないだろう。
これではどう転んでもコルドバには破滅しか待っていない。
正に悪夢の板ばさみであった。
「………………っく」
どう返事してよいか分からず、コルドバは地面に視線を落とすとギリッと唇を噛み締める。
答えが出せず、沈黙を守ったままきまずい時間だけが刻々と過ぎていく――。
――と、その時だった。
「……湊様、少々お戯れが過ぎるのでは?」
突然、この場所にいるはずのない女性の声がした。
ハッと顔を上げると、いつの間にか青年の後ろにメイドの女性がかしこまっている。
(馬鹿なっ! いつの間に!?)
コルドバは思わず心の中で叫んでいた。
つい先ほどまで、ここには確かに自分と青年の二人しかいなかったはず。
後から誰かが店に入ってくれば扉の開閉で必ず気づく。
気づかないことなど絶対にあり得ない。そう断言できるというのに、現実としてメイドの女性は目の前に確かに存在している。
これには青年もさぞかし驚いているだろうと思いきや、彼女の突然の登場にも青年は全く驚いたそぶりを見せないで、彼は平然と会話を続ける。
「少なくても俺は彼に何一つ嘘は言ってない筈だけどね」
「――しかし、こちらの方が勘違いをされていることに気づいていながら、あえて訂正はなさらなかったですよね?」
メイドにジト目で問い詰められると、彼は降参とばかりに軽く肩をすくめた。
「いつ頃気がづくかな――と思ってね」
そう返した青年には、悪びれた様子は全くない。
「まあいいか。五十鈴、あれを!」
告げた青年はメイドに向かって手を伸ばすと、彼女から円筒形の筒を受け取る。そしてそれをズイっとコルドバの目の前に差し出した。
「――えっ? えっ?」
目の前で起こっている事態の展開が速すぎてコルドバにはとてもついていけない。
「コルドバ様、主の非礼は私がこの通りお詫び致します。それは決して危険なものではございませんので、どうかお受け取りになってくださいませんでしょうか?」
訳も分からないまま、こちらに向かって頭を垂れているメイドに促されて、コルドバはその筒をおっかなびっくり青年から受け取った。
その筒は金属製で、ふたを開けると中に丸められた状態で一枚の書面が入っている。
青年の視線に促されるまま筒の中から書面を引き出すと、中を見るために筒状にまるまった書類をまっすぐに伸ばす。
「……なんだ? これは?」
内容を確認する前に、広げた紙のキメの細かさと光沢にまず目を奪われる。
今コルドバが手にしているもの、それが紙であるのは間違いない。
だが、それはおよそ人の手によってできたとは思えぬほどに真っ白で、しかもその表面は磨きぬかれた大理石の表面でも撫でているかのようにツルツルであった。
もとより紙は庶民がほいほいと利用できるほど安価なものではない。
しかし、この紙はおよそコルドバの知る限りこの世界に流通しているどんな高級品よりも品質が高かった。それも比べ物にならないレベルでだ。
このようなどれほどの価値を持つかもわからないものを簡単に差し出してくる青年たちの正体が何者なのか、恐れと不安を感じながらも考えを巡らせていると、「コルドバ様、どうか内容のご確認を」とメイドの女性にやんわりと先を促されてしまう。
「――あ、ああ。失礼」
言われるがままに手にした書面に目を通す。
書面に記された表題を目にした瞬間、コルドバの目は驚きのあまりくわっと限界以上に大きく見開かれる。
そこには目立つような赤インクで『魔法王国神無アンリエスト王領 奴隷売買許可証』と記されていた。




