第45話
いつもの電車の中で、海部さんと話しているときだった。
僕は窓の外の異変に気づいてしまった。
農道で軽トラックが横転している。
どこにでもある白い普通の軽トラックだった。
それだけなら、事故が起きたなと思うだけだ。
黒煙が上がっているわけでもない。
よくある普通の自損事故だ。
歩いていても、何も考えず横転した車の横を通り過ぎるだけだ。
違うのは、運転席の窓からハンカチを持った手が伸びていることだった。
車内にまだ人がいる。
ハンカチの振り方が弱々しい。ほとんど動いていない。
2.0の視力で、はっきり捉える事ができた。
「どうしたんですか?」
海部さんが不審な顔をする。
「いや、なんでもないよ」
通り過ぎてしまった。
もう、確認することはできない。
確かに人の腕だった。
どうする?
「空田さん?」
本気なのか、ふざけているのか分からない。
でも、もし事実だったら。
僕は以前出会った、盲目の白いワンピースを着た女の子のことを思い出した。
あの時、誰かがキーホルダーを拾うだろうと、電車を降りるギリギリまで見守っていた。
分かっているのに、何もしないで待っていた。
でも、誰も拾わなかった。
今回も、誰も気づいて助けにはいかないかもしれない。
誰かが助けに行くまで、苦しんでいるかもしれない人を眺めているわけにはいかない。
いいや。騙すなら、騙せ。笑い者になってやる。
僕は覚悟を決めた。
電車が止まる。
「それじゃ、また明日、ですね」
電車を降りる海部さんに続いて、僕も降りた。
「どうしたんですか」
「ちょっと、用事を思い出して、戻ろうかと」
「それは、大変ですね」
ちょっと、安心している。
僕の異変を、これと誤解したみたいだ。
この誤解は、僕にとって都合がよかった。
「まあ」
僕は、言葉を濁す。
「学校に遅れるよ」
海部さんを巻き込むわけにはいかない。
海部さんは何度も振り返りながら、改札を抜けていった。
二人で笑いものになるわけにはいかない。これだけは避けたかった。
海部さんを見送った後、僕は横転したトラック側の改札出口へ向かう。
改札を抜け、歩くスピードが次第に速くなる。
最後は駆け足になった。
軽トラックは農道から外れ、水路に車輪が挟まっていた。
窓から伸びた腕は、ドアの上に落ちていた。
それでもハンカチは離していない。
本物だ。
僕は、フラフラになりながら、軽トラックに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
僕は息を切らしながら、声をかける。
老人がこちらをチラッと見た。
外傷は見えないが、老人の反応が弱い。
助けを呼ぶ返事さえ出来ないほど衰弱している。
僕はスマホを取り出した。
『火事ですか。救急ですか』
僕は大きく息を吸う。そして、一気に声と共に吐き出した。
「救急です。聞いてください。老人が横転した軽トラックの中にいます。意識はあります。場所は城北タウンのそば。GPSがオンになっています。位置を確認してください。お爺さんの容態は‥‥‥」
僕は息の続く限り、一方的に話し続けた。
地元のテレビ局が取材に来たが、僕は全て断った。
『お手柄、フリースクールに通う空田さん。十九歳』というニュースが狭い地域内で行き場を失い、それでも長い間この場所にしがみついて離れなかった。
僕は、また引きこもりに戻ってしまった。
善意の報道、それは分かっている。
お爺さんを助けたことを後悔したくない。
僕の心が、打たれ弱いだけだ。
引きこもりの情けない男だということを、海部さんに知られてしまった。
海部さんは、こんな僕をどう思っただろうか。




