第29話
コオロギが鳴いている。
あれはカネタタキの仲間だろうか。
遠慮がちにチン、チン、チンと鳴いている。
電車に跳ねられるなよ。
海部さんが飛び込んでくる。
少し息を切らしていた。
「間に合いました」
両ひざに手を当ててかがみ込んでいる。
「寝坊?」
「いえ、まあ、似たようなものです」
寝坊に似たものって、なんだろう。
確認しても、いいのだろうか。
海部さんの呼吸が乱れたままだ。
あまり喋らせない方がいい。
海部さんがいつものように横に座る。
電車の窓から差し込む日差しは強いが、暑さを感じない。
夏が終わってしまったと改めて思った。
『この電車は時間調整のため、一分ほど停車いたします。発車までしばらくお待ちください』
まるで、海部さんの呼吸が安定するまで、待ってくれているみたいだ。
アナウンスに驚いていたカネタタキも、恐る恐る鳴くのを再開する。
三、四匹いるのかな。
「聞こえる?」
海部さんが見つめる。
「カネタタキ、コオロギの仲間。ほら」
海部さんが耳を澄ませる。
「聞こえます」
海部さんが目を閉じる。
海部さんのまつ毛がこんなにも長いことを初めて知った。
「不思議な鳴き方ですね」
「仏具の鉦を叩く音に似てるでしょ。だから、カネタタキ」
海部さんが目を開けてしまった。
「仏具? ああ、おばあちゃんちの仏壇にありました。小さなどんぶりみたいなものですよね」
「そういうやつです」
「確かに似てますね。この音。子供のころ、楽器みたいに叩いて叱られました」
「お転婆だった?」
「ほんとに、小さい頃の話です。ほんとですよ」
「はい」
二人でカネタタキの鳴き声に耳を澄ませる。
電車での十五分。
延長の一分はカネタタキの鳴き声に使うのも悪くない。
海部さんの口元から自然に笑みがこぼれる。
僕も笑っているだろうか。
『大変お待たせいたしました。時間調整が終わりましたので、間もなく発車いたします』
発車のチャイムが鳴り響く。
カネタタキが驚いて鳴き止んでしまった。
ドアが閉まる。
もう少し聞いていたかった。
「ふぅ、やっと落ち着きました。カネタタキの声、じっくり聴いたのは初めてです。空田さんって物知りですね。あっ、昆虫博士だったか」
「カネタタキっていうのは‥‥‥」
僕はスマホを取り出す。
「あっ、いいです。虫の形は。鳴き声だけで」
「そう」
「はい。声だけ聴くのがいいんです。素敵な声でした。明日も聞けますよね」
カネタタキの代わりに、僕は今海部さんの声を聴いている。
どちらも、心地よいと思った。
明日も、一緒にカネタタキを聞こう。




