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雨の日

どうして雨の日が嫌いなのか。


 理由なんて簡単だ。


 まず、急に気温が下がる。


 真夏ならまだ涼しくて気持ちいいのかもしれないけど、普段の気温に慣れた状態で突然冷え込まれると普通に不快だ。


 しかも雨に濡れた服って、肌に張り付く。


 あの感覚が本当に気持ち悪い。


 傘を差していたところで完全には防げないし、風なんて吹こうものなら肩や袖なんて一瞬でびしょ濡れになる。


 その状態で帰宅すると、今度は母親の説教タイムだ。


『なんでこんな濡れてるの? 傘持って行ったんでしょ?』

『昨日洗ったばっかりなのにまた洗濯じゃない』

『ほんと困るんだけど』


 ……下手すると、昔やらかしたことまで掘り返される。


 つまり。


 ──雨の日に良いことなんて一つもない。


 だから本来、雨の日というのは。


 一人で傘を差して、さっさと帰るべきなのだ。


 その方が服も濡れにくいし、冷たい布が肌に張り付く不快感も味わわなくて済む。


 なので俺はここで、雨の中を男女で楽しそうに喋りながら歩いている連中に心から忠告したい。


 さっさと帰れ、と。


 ……そしてそれは、今の自分自身にも言えることだった。


 なぜなら現在の俺は。


 クラスメイトの女子と、一本の傘を共有しながら帰宅しているからだ。


 しかも、相手はエリヴィア。


 俺を毎日振り回してくる張本人。


 当然ながら、まったく嬉しくない。


「ねぇ」


 隣から声が飛んでくる。


「さっきからそっちの肩、ずっと濡れてるよ? 濡れた服って肌に張り付いて気持ち悪くないの?」


 エリヴィアは首を傾げながら、青い瞳でじっと俺を見上げていた。


 無視するのも不自然なので、一応答える。


「別に。帰って風呂入れば終わりだし」


 そう言いながら、俺は傘をわざと自分側へ傾けた。


 左肩を雨から守る代わりに。


 当然、その分の雨は隣へ降り注ぐ。


「ひゃうっ!?」


 冷たい雨を浴びたエリヴィアが、小さな悲鳴を上げる。


 そして反射的に、ぴたりと俺の方へ身体を寄せてきた。


 距離が近い。


 近すぎる。


 雨に濡れた金髪。

 ほんのり赤くなった頬。

 濡れた制服は肌に張り付き、薄く透けた布の奥に白い肌がぼんやり浮かんで見える。


 そのくせ本人は、ゴミを見るみたいな目で俺を睨んできた。


「……最低。意外と鬼畜なんだね、君」


「それはどうも」


「可燃ゴミ以下だよ」


「せめてリサイクル可能な資源ゴミって言ってほしいな」


「無理。君みたいなのは真っ先に焼却されるタイプ」


 容赦がない。


 エリヴィアは不満そうに濡れた袖を見下ろしながら、乱暴に俺から傘を奪い返した。


「はい、持って」


「え、俺まだ濡れてるんだけど」


「知らない。これ以上私の下着透けるの嫌なんだけど」


「……水色なんだ」


「言うと思った」


 冷えた指先が一瞬だけ触れる。


 雨のせいか、彼女の手は少し冷たかった。


 エリヴィアは拗ねたみたいにそっぽを向き、赤くなった手を袖の上から擦っている。


 白い吐息が小さく漏れた。


 普段のこいつはもっと余裕ぶっている。


 何でも見透かしたような顔をして、人をからかって楽しんで。


 だから今みたいな反応は少し珍しかった。


「そもそも君の傘、小さいんだよ。もっと大きかったら誰も犠牲にならず平和だったのに」


「うわ、恩人に向かって最低なこと言ってるこの人」


 エリヴィアはげんなりした顔で舌を出す。


 その仕草すら妙に絵になるのが腹立たしい。


 会話が途切れる。


 雨音だけが静かに続いていた。


「……ねぇ」


「ん?」


 沈黙を裂くように、エリヴィアが口を開く。


「さっき、どこ行ってたの?」


 青い瞳がこちらを見る。


「放課後、由莉子たちと話したあと君探したんだけど、もういなくなってたじゃん。部活もやってないのに、どこ行ってたのかなーって」


 傘の端から落ちた雨粒が、アスファルトで弾ける。


 俺は少しだけ黙ってから答えた。


「……別に。帰る途中で妹に頼まれてたもの思い出しただけ」


「へぇ~~」


 エリヴィアが意味深に目を細める。


「君、妹いるんだ?」


「悪いかよ」


「んーん。ただちょっと気になっただけ♪」


 唇を指先でなぞりながら、エリヴィアは楽しそうに笑う。


 あぁ、まずい。


 これは完全に“いつものモード”だ。


 この状態のエリヴィアは面倒くさい。


 まともに相手すると確実に疲れる。


 だから俺は、即座に撤退を決めた。


「……あー、もうすぐ家だから。傘ありがとな」


 そう言って、俺はコンビニ袋を抱えたまま駆け出した。


 雨が肩を叩く。


 冷たい。


 今日という日を忘れられなくなるくらいには。


「なにそれー。逃げたー」


 背後から呆れたような声が飛んでくる。


 エリヴィアは去っていく背中を見送りながら、小さく笑った。


 本人すら気づいていないような、柔らかな笑みだった。


 気づけば雨は少し弱くなっていた。


 厚い雲の向こう側で、空がゆっくり明るくなり始めている。


 ……俺が女子を嫌う理由。


 もしかすると、“嫌い”というより。


 ただ、信用していないだけなのかもしれない。


 色んなことがあって。


 期待して。

 失望して。

 その繰り返しに疲れただけ。


 だからもう、最初から信じない。


 ……なのに。


 エリヴィアという存在だけは、いまだによくわからなかった。

「お兄……なにしてるの?」


 風呂上がりの妹が、ソファでだらけながらスマホを弄っている俺にそう聞いてきた。


「女ってなんなんだろうなって考えてる」


「あ、そっか。服なら洗濯機入れといたから。じゃ、私は部屋戻るね」


「……待て」


 時間を少し戻そう。


 全身びしょ濡れのまま帰宅した俺が、“ぽた、ぽた”と床に雨水を垂らしながら玄関を開けた瞬間。


 ちょうど風呂上がりの妹――若葉と鉢合わせしたところから始まる。


「……ぷっ」


 三秒。


 俺の姿を見つめたあと。


 若葉は耐えきれなくなったように吹き出した。


 びしょ濡れで泥だらけの兄を見て。


「いや、その……今って笑っちゃダメな場面だったよね?」


「それを今、雨でぐちゃぐちゃになった俺に聞くのか?」


 なんて酷い妹だ。


 もう何年も一緒に暮らしてるんだから、最低限の心配くらいしても良くないか?


 お兄ちゃん傷ついてるんだけど。


 ……まぁ、口に出すと余計面倒なので心の中だけにしておく。


「なによ、その“妹に心配されなくて悲しいです”みたいな顔」


 若葉はくるりと綺麗にターンした。


 風呂上がりの黒髪がふわりと揺れ、シャンプーの甘い香りが鼻先を掠める。


 バスタオル姿のまま、得意げに胸を張った。


「それよりさ。今日の私、昨日とどこか違うと思わない?」


 突然始まった謎の問題。


 俺は仕方なく若葉を観察する。


 湯上がりでほんのり赤い肌。

 白い肩。

 バスタオルに包まれた細い身体。


 中三なのに相変わらず成長する気配のない胸。


 あと、風呂上がり直後なのか、小さな足の指先にはまだ水滴が残っていた。


「……太った?」


「違う」


「胸が重くなった」


「違う」


「髪伸びた?」


「…………」


 なんで黙るんだよ。


 というか待て。


 なんで俺は全身泥だらけの状態で、玄関に立ったまま風呂上がりの妹と“最近の変化クイズ”をやってるんだ?


 ──やっぱり女子って面倒くさい。

「はぁ……お兄に期待した私がバカだったぁ……」


 若葉は呆れたように肩を落とし、そのままとてとてと階段へ向かっていく。


「お風呂まだあったかいからね〜。私はお勉強戻りまーす」


 ひらひらと手を振りながら、軽い足音を響かせて二階へ消えていった。


 やがて、ぱたん、と部屋のドアが閉まる音がする。


 ――そして現在。


 風呂を済ませた俺は、一人でリビングのソファに寝転がっていた。


 テーブルの上には、さっき開けたばかりの牛乳。


 ぼんやり天井を眺めながら、ふと思う。


 ……若葉って、俺のこと全然男扱いしてなくないか?


 兄妹とはいえ血は繋がってないし、従妹同士だ。


 一緒に暮らし始めてまだ二年くらい。


 それなのに、風呂上がりで平然とあんな格好してるのはどうなんだ。


 俺には理解できない。


 気になった俺はスマホを取り出し、若葉にメッセージを送った。


『まだ起きてるか? 聞きたいことある』


 既読は一瞬だった。


『なぁに〜?』


『今日のパンツ何色?』


『きも』


 即死だった。


 ……どうやら俺はちゃんと異性認定されているらしい。


 少し安心したような、悲しいような、複雑な気分になる。


 ソファに身体を沈めながら、ぼんやり昔のことを思い返す。


 若葉は昔から、なんだかんだ出来が良かった。


 勉強も普通にできるし、愛想もいい。


 正直、俺なんかよりずっとちゃんとしている。


 だから時々、考える。


 血が繋がっていなくても、若葉は家族だ。


 もしあいつが将来、どうしようもないくらい辛いことにぶつかった時。


 その時は多分、俺は全力で助けるんだろう。


 きっと若葉も同じだ。


 ……だからこそ。


 兄貴の俺がもっとしっかりしなきゃ駄目なんじゃないか、とか。


 そんなことを、らしくもなく考えてしまう。


 一方その頃。


 エリヴィアはベッドの上でごろごろ転がりながらスマホを弄っていた。


 薄いパジャマは少しはだけていて、緩んだボタンの隙間から白いお腹が覗いている。


 画面にはいつものグループチャット。


 毎晩のように、どうでもいい会話が流れていた。


「ふあぁ〜……もうこんな時間なんだぁ……」


 眠そうに声を漏らしながら、エリヴィアは身体をくるんと丸める。


 窓の隙間から入ってきた冷たい風に、小さな足を慌てて布団の中へ引っ込めた。


 そのままスマホを抱きしめるように胸元へ寄せる。


 まるで今日一日を満喫しきったみたいに。


 小悪魔は穏やかな寝息を立てながら、静かに眠りへ落ちていった。

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