6.
その夜もまた、僕は終電を逃した。ここのところ毎日だ。
決算業務の真っ只中なのにも関わらず、予定通りに進まない案件のフォローに追われていた。
営業のトップは湊だが、口頭でお約束が成された後は、結局僕が拾うことになる。顧客との打ち合わせから、契約書の確認、条件の調整などなど、僕の仕事は、経営管理部長という肩書きのイメージとはかけ離れた仕事も多い。
今日も自分の仕事に取りかかれた時には、22時を過ぎていた。
このフロアに残っているのは自分だけだ。だんだん頭がぼんやりしてきたが、これは明日朝までの仕事だ。ぱたぱたとキーボードを叩く音だけが響く。
「帰らないんですか」
「うあっ」
突然声をかけられて、驚いて声が出てしまった。
見れば高城がパーテーションから顔をのぞかせていた。両手に紙コップを持っている。
隣の席は定時ごろから空いていたから、とっくに帰ったと思っていた。
「……いたのか」
「開発のフロアにいました」
「ああ、そっちか」
「いつもは帰っちゃうんですけど。最近、瀬川さんまだいるから」
「じゃあもう帰れ」
「帰りますよ、これ飲んだら。はい、瀬川さんも」
そう言って高城は片方の紙コップを差し出した。インスタントのコーヒーの匂いがする。
「要らん」
「じゃあここに置いときます。これも。少し糖分とった方がいいすよ」
コーヒーの隣にチロルチョコを一つ置いた。きなこもち味。下のコンビニのレジ脇にあるやつだ。上司への差し入れのセンスが悪い。
「手伝えることあります?」
「ない」
僕は短く答えてノートPCに向き直った。
一度目を離したからか、集中が途切れて画面の文字が滲んで見える。
「いつまでやるんすか? 顔色、悪いっすよ」
「……」
「いつも白いっすけど、今日はなんか、白い通り越して青系」
「……」
「健康大事っす。俺、筋トレ趣味なんすよ。筋肉は裏切らない」
「……」
「瀬川さんて、なんか運動してます?」
くだらない雑談に返事をせずに、キーボードをたたく。
……仕事だって、僕を裏切らない。
高城は僕のデスクの横に立って、しばらくモニターを見ていた。見られても問題のない画面だったので放っておく。
「……これ、今日じゃなくて良くないですか?」
「は?」
「これ、森くんのやつですよね。投げても対応できるの多分水曜すよ。今、新規案件でごたついてるから」
「だから?」
「瀬川さんの今日のタスクかもしんないですけど、これ、明日で大丈夫ですよ」
「だからなんだ?」
僕を指導するような言い方に腹が立つ。そうだとしても、僕が今日中に見て、森に送ると伝えてある書類だ。今日の僕の仕事だ。
「ねー、瀬川さん」
呆れたような低い声だった。すこし苛々したような口調。上司に対する言い方ではない。
「明日にしましょう。ちょっとおかしくなってますよ、タクシー呼ぶから帰りましょう」
「うるさい」
「湊さんに言われてるんすよ、瀬川さんが無理したら止めろって」
それを聞いて、腹の底に泥をぶちまけられるような、不快な思いがした。
なんでコイツが、湊と僕の間に入るんだ。そんな事、湊が直接僕に言えばいい。
そうすれば言ってやる。僕は好きでやってるのだから、ほっといてくれと。
返事をせずに仕事を続ける。しばらくして後ろからため息が聞こえた。ようやく諦めたか。
「はあ、社長命令だしなぁ。あー、もう、勝手にやるか」
言われた意味がわからなくて顔を上げた。
「……は? 何を?」
「こんくらいなら、待てるだろ」
ぬりかべのような顔で、僕を見る。物でも見るかのような目……何を考えているのか分からず、僕は背中にうすら寒さを感じる。
「ば、馬鹿にしてるのか」
「や、もうなんか面倒で」
「それが上司に対する口の聞き方か? これだから最近の若いヤツは!」
僕はカッとなって机をたたいた。暗いオフィスに、バァン!と、派手な音が響く。
「あぁ?」
怠そうだった高城の声が、一層低く、固く尖った。ぬりかべの目に怒りの火が灯る。
「あのさぁ、こっちは心配してるってのに、なんなんすか。関係なくないっすか、歳とか」
そう言うと高城はこちらに手を伸ばす。
「!」
殴る気かと、僕は目を閉じて頭を庇った。




