23.
「落ち着いた?」
良く響く声を低くすると、色気のある声になるのだな、などと思いながら頷くと、大きな手が僕の髪をくしゃっとかき混ぜた。おっさんがおっさんに、何をやっているのだろう。まあ、考えてみれば一回りほど違うのだ。歳の離れた弟のようにでも思ってくれたのだろうか。
「誰にも言ってないんだけど。瀬川、内緒にできる?」
ずいっと近づいてきて、囁く。僕は操られたように頷く。
「独立するんだ。お前も来い」
僕は頷きそうになって……慌てて身体を固くした。
「え? ええ??」
危なかった。
緒方さんが独立!? 絶対無理だろ!
それが、起業して5年、必死で走ってきた僕の頭に、一番最初に浮かんだことだった。人間には向き不向きがある。湊を見ていれば分かる。僕は湊が就職すると言ったら全力で止める。緒方さんはその逆だ。規律があり、組織に護られているから成立している有能さだ。
確かに、優秀だ。数字も上げる。起業も組織も山のように見てきたから、知識はあるだろう。でも、起業は、実際にやってみないと絶対わからない。どんなにロジックを組み上げても、絶対がない。この僕が、占いの本に手をのばしそうになるくらいだぞ。
そんな僕の心の内を知らず、緒方さんは僕を説得にかかる。
「湊君のところはさ、もう、先が見えてる。人数も30人を超えられない。わかるだろ、湊君は組織を作るのには向いてない。このあたりが頭打ちだ」
そうだ、その通りだ。湊は仲間と楽しくやりたいという思いが強い。それはビジネスとして成功したいのとは少し違う。だからかもしれない。組織は確かに、伸び悩んでいる。
「そろそろ出口も考えてるんだろ? お前の事だから、これじゃあIPOは無理って分かってるんじゃない? そしたら当然、M&Aは視野に入ってくるよね」
いや、それは違う。出口など考えていない。湊は金のためにやってるのではない。だからといって社会の為でもない。やったら面白そうだな、という事をやっているのだ。まあそれも、問題の一つではあるのだけど。だから今は、売るなんて考えられないだろう。
「起業して、事業育てて、バイアウト。それはギャンブルだよ。今回はそこそこ上手く行ったけど次はどうかな。お前、不安定なの、苦手だろ? もっとさあ、安定した契約を長くやる方が向いてる」
たしかに、僕はギャンブルは苦手だ。負けた時のことばかり考えてしまう。
だからこの5年間、キラキラと前を向く湊の後ろで、負けさせない、負けるなら出来るだけ傷は浅く、そう思って必死にやってきた。いつも不安で仕方がない。
でも、そのおかげでこの会社はここまでこれたとも思っている。
「高……なんだっけ、高田? 君? お前の後任も雇ったんでしょ。それってさ、もう終わりなんじゃない? 役割。湊君にも、そろそろ面倒がられてるかもね。お前こまかいから」
いや、それは無いと思う。もしそうだとしても、それはまだ早い。高城は覚えは早いけど、社会を知らなすぎる。それに僕の後任ではない。おそらく……湊はそこまで考えていないと思うけれど……高城は湊の後任の候補だ。あいつは、あっちと同類だ。
「お前の能力は僕がよーくわかってる。向いてないことやるの、キツイだろ。もっと楽に、もっと稼げるよ、お前なら」
僕は唾を飲み込んだ。
緒方さんは勘違いしている。僕は湊だからやれているのだ。苦手なことも向いてないことも、湊のたりない所を補うことに集中しているからできているのだ。
そして、それそのものが目的なのだ。稼ぎとか、地位とか、その先はどうでもいい。
僕にとって、『仕事』と表現されるそれは、手段ではない。目的そのものなのだ。
逆らわなければ。
この男に、飲まれるわけにはいかないのだ。
「緒方さん、折角ですけど、僕は」
「あー、はは、そんなすぐ断らないでよ」
その声色に、ぴり、っと、機嫌センサーが反応する。
「今ここで結論出せって言ってるわけじゃないんだからさあ」
緒方さんの左眉が上る。
……駄目だ、今ここで断ったら。
センサーが僕を止める。機嫌を損ねてはだめだ。まだプロジェクトの途中なのだ、突然ハシゴを外すことだって、彼なら出来る。
僕が戸惑った一瞬、緒方さんの左手が、カウンターの上の僕の右手を押さえた。とっさに引くが動かない。太い手首のロレックスが、アルマーニの袖口から覗いていた。
「もう、いくつか引き合いはあるんだ。報酬も弾むよ。男なら、一度くらいいい思いしたいでしょ……」
そこまで言うと、緒方さんはふと目線を上げた。あちゃあ、という顔をすると手を離す。
振り返れば高城が突っ立って、僕たちを見下ろしていた。なんだか浮気現場を見られたような、よくわからない居心地の悪さを感じる。……それほど、高城は怒っているように見えた。いつの間に僕には、高城の機嫌センサーまで搭載されたのだろうか。
「ごめんごめん、見なかったことにして。ねえ瀬川、お前からも言っといてよ」
高城はそれを聞いて、ころっと表情を変えた。にこやかだったが、見たことのない顔だった。言うなれば、大人の顔。
大袈裟にお辞儀して、タバコを緒方さんに渡す。
「あはは、別に何も見てませんよ。瀬川さん人気者なんで、よくある事です」
よくある? 何がだ? こんな事、よくあってたまるか。
そして僕の後ろに立って、ぽん、と両肩に手を置いた。
左肩に、感動ジャケットからのぞくApple Watch。
「でも、勘弁してください。僕にも、瀬川さんが必要なんです」
「ふうん」
緒方さんが眉を上げる。そんなに機嫌は悪そうではなかった。緒方さんの高城の評価はなぜか上がったようだ。
その時、僕のスマホが震えた。画面に湊の名前。それを見てホッとする。
だが。
……この状況で出られるわけがない。




