19.
下っ端研修の実践の機会は、思ったよりも早くきた。
『瀬川、やべえ』
『現場の上のほうに緒方さん入ってるらしい』
『ごめん知らなかった』
『会わないようにしてね』
現場に向かう地下鉄の中。大阪に出張中の湊からのメッセージが届いた。slackではなく、LINE。ポコン、ポコンと連投されるメッセージ。気を使ってくれたのだろう、その後にアニメのキャラクターの、意味が分からないスタンプがいくつか続いた。
しかしそのスタンプも、あまり効果はなかった。その名前に、背中に冷や汗が流れる。
──緒方さん。
大丈夫だ。もうあれから何年たったと思っている。あの経験があったから、僕は今こうしているんだ。あれは無駄ではなかったのだ、大丈夫だ。僕は無能ではない、逃げたのではない。そう必死に自分に言い聞かせる。
『了解』
と、返すと、すぐにまたLINEが来た。
『今日、会議でそっちにいるみたいだから、高城と一緒にいろよ』
『一人になるなよ!』
そこまで心配されると、なんか、湊の娘にでもなったみたいだな、と、少し笑えた。
……よし。大丈夫だ。
+
「なんか湊さんから、直接Slack来て。今日は瀬川さんと一緒にいろって」
朝から、どこに行くにもついてくる高城に聞くと、そう白状した。
トイレまでついてきたので、その横の休憩スペースの自動販売機でコーヒーをおごってやっていた。
「理由は聞いてるか?」
「いや、特には。なんか大事な作業とかあったりします? 勉強しろってことかなって」
何も知らないなら、説明することはない。まさか上司のお守りだとは思わないだろう。
高城が現場に来るようになって2週間、こいつはもうすっかり現場に溶け込んでいた。
スーツ姿も見慣れた。前髪は上がっていて、ニキビ跡が残る額が見えている。この頃、高城はUNIQLOの感動ジャケットをいつも着ている。僕に言われて色々と見た結果、コスパに感動したらしい。
この手の機能的な格好は、本人のスタイルの良さを浮き彫りにする。安上がりなのに妙に小洒落て見えた。女性の視線も集めているが、有能な割に素直で人懐こいので、意外とオジサン連中にも好かれている。
ちなみに、一番困るのは、目を離すとすぐに、他の協力会社からスカウトされることだ。先日ついに原さんからも「うちも中途募集してるよ~。推薦しようか?」と冗談交じりにいわれていて、僕はひやひやした。大手の条件にはどうしたってかなわない。
「まあ、日常の動きは大分わかったと思うんで、そろそろ瀬川さん休みとっても大丈夫ですよ」
なので、本人はそう言ってくれるのだが、僕はどうも心配で休めないのだ。
「まあ、そうだな。そのうち……」
言葉を濁しコーヒーを飲む。その時だった。
「あ、いたいた。瀬川君! 久しぶり」
その、やたらとよく響く声に、全身が総毛立った。
「丸山さんに聞いたよー、湊君とこ紹介したって。それでお前もいるかと思って、探してたんだよ。言ってよー、来てるならさあ」
大股で歩いてくる、背の高い、がっちりした壮年の男。
隙のないアルマーニ、艶のある肌、白い歯。整えられた太い眉に、ぎらぎらと光る目。
心臓の音が強くなる。周囲の音が遠くなる。
「……あ、」
「? 瀬川さん? だいじょうぶっすか?」
高城の声。それが聞こえて音が戻った。
そうだ、こいつの前でみっともないところは見せられない。
何とか、大きく息を吸い込む。これは術だ。振りでいい。声を少し高く、口角を上げて。相手にテンションを合わせるのだ。
「お久しぶりです、緒方さん。私もさっき聞いたんですよ、同じ現場に入れるなんて光栄です」
よし、喋れている。大丈夫、飲まれてない。




