忘りえぬ痛みと希望のプリン
体に刻まれた忘れられない教訓と新たな希望
あの忘りえぬ惨劇から一夜開けた朝、狸氏の脳裏にはかつて学んだ一般社会生活に於いて先ず使わないであろう無駄知識による妄執が渦巻いていた。
昨夜の尿道カテーテルを繰り返し挿出入する行為は、所謂拷問に該当し、国際人道法や拷問禁止条例に違反するのではないか、これを立証し国際刑事裁判所へ訴追するにはどういうプロセスを経るべきか…
そもそも武力紛争下でもないし、当該看護師は公務員ではないので上記の想定自体成立しないものである…
あり得ない想定をが脳内を渦巻く状況であったが、其れほどまでに昨夜の体験は鮮烈なものであり心に深く刻まれたものであった。
ともあれ、二度とこのような惨劇を起こさぬためにどうすればよいのか、こまめな水分補給ぐらいしか自己では出来そうにないが、経鼻カテーテルにより栄養分を摂取している現状では望むべくもなかった。
経口摂食、さも当たり前のように行われる行為を再び獲得するためには、様々な壁があった。
入院してからの2週間余り、経口で摂食をしていない為、食物を咀嚼し呑み込む嚥下の機能が落ちていることは確実であるし、ベッドから上体を起こすことも出来ぬ状態では摂食することすら厳しい状況であった。
食への執念は人一倍強い自負のあった狸氏は、入院3日目には経口摂食について周囲に問い合わせており、繰り返し食事への執念を示していた。
そんな折り、午後に嚥下検査を行い結果如何によっては早ければ明後日から経口摂食を開始できるとの報を看護師から受けた。
狸氏は昨晩の惨劇の事はひとまず脇におき不意に訪れたの吉報に歓喜した。
むかえた午後、ベッドのリクライニング機能により何とか上体を起こし検査を心待にしていると吸い飲みと呼ばれる急須のような容器とプリンをワゴンに載せ言語聴覚士と看護師が現れた。
2週間もの間飲まず食わずで過ごし飢餓感を極限まで醸成した狸氏はプリンの容器を穴が開くほど凝視し若干引かれてはいたが…
つつがなく検査が始まり、吸い飲みを用い少量ずつ水を摂取し嚥下に問題が無いかを確認したり唾を飲み込む動作を確認されたりし、ついにプリンで評価を行う段となった。
プリンの容器から蓋をはずした刹那、部屋中をバニラとカラメルの甘い香りで満たしたように感じた狸氏は差し出された一口のプリンを恍惚の表情で咀嚼し悦に浸った。
バニラの優しい香りと口中を満たす卵の風味と舌触りのよい甘味、市販品のありふれたプリンのはずなのにまるで至高の味であった、空腹は最高のスパイスとはよく聞く台詞だが飢餓感は生存本能レベルで味覚を鋭敏にするものであった
数口検査で摂食した後、残りのプリンをすべて食べて良いと言う言語聴覚士に対し、猛烈に感謝しつつ狸氏は今後の生きる希望を食事に求めることを再確認した。




