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「旦那様、おはようございます」
「おはよう、サリ。ローズに何かあったのか?」
「お嬢様の様子はいつもと同じでございます。ただ、今朝、吸入薬を使った際に……残りの回数の表示が赤字で20と……」
「そうか、わかった。少ししたらローズの部屋に行く、ローズの朝の準備を頼む」
「かしこまりました」
屋敷に戻ってから、ローズは一人で泣くことがあった。その都度、私はローズの部屋を訪ね理由を聞いた。ローズは「異世界恋愛小説が興味深くて、つい感情が高ぶって、婚約破棄・悪役令嬢・ざまぁ・もう遅い系が、特に私好みで……」と言っていた。だが、吸入薬が尽きる事の不安だったのだろうか? 他に何かあるのか?
私は、何かを見落としているのだろうか?
一瞬にして、私の心に冷たい霧がかかった。
私は、ローズの部屋へ急いだ。
いつもと変わらない心地よい低めの声が「おはようございます、セス様」と私を迎えてくれた。ホッとした。
私からの「ローズ、おはよう」にローズは明るい笑顔を浮かべた。心をおおっていた冷たい霧は完全に消えた。
※
フォード邸に戻って5回目の朝。
今日は1月1日、日本でいう元旦、新年だ。
去年の今日、前月の同日、こんな元旦を迎えるとは思わなかった。
この世界では、クリスマスやお正月といった行事はないようだ。変化を好まない私には好都合だった。面倒だった年賀メールやスタンプと決別できた。
私は吸入薬を使う、カウンター残19。
喘息は、1日1吸入と王命治療1回で治まっている。
王宮から戻ってからというもの、セスと私は変装して王都に遊びに行く毎日だった。朝食後に王都へ出発し、散策、買い物、ランチ、散策、買い物、お茶という時間割をこなしてから帰ってきた。
私は王都を一人で歩けるほどに道を覚えた。早々に役に立つ日が来ると思う。
王命治療をヒースが行う日もあった。
ヒースのそれは、私の肩首に手を当てて、5分ぐらいかけて施された。施術後のヒースの体力消耗は意外にも少なく見えた。
王命治療といっても、魔術師によって違うようだ。奥が深い!
セスやヒースに回復術を施すため、ランカスター卿が日参してくれた、陛下からの伝言を忍ばせて。
セスが回復術を受けている時に私はお菓子を持ってハクに会いに行った。古典的だがベッドのブランケットにクッションを忍ばせて昼寝を演出した。意外にも上手くいった。
ハクに私を依り代にする話を再度した。
心と病の共有がルール化されるまでは、召喚された者が虐げられそうになるとハクが憑依して痛みを受けたり、召喚された者が食事を取らない時にはハクが憑依して食べたりと、今までの憑依の歴史を聞いた。酷すぎてハクが不憫。
私に憑依すると、私からその間の記憶がなくなるから出来てもやらない、とキッパリと断られた。私も依り代という言葉を口にするのをやめると決めた。
私は色々なお菓子をハクに届けた。
一見、急に私がお菓子を食べ始めたことに対して、ヒースだけが疑問の目を向けた。この執事できる!
1月4日
登城を明日に控え、その準備中に、ヨハンが告げた。
「旦那様、陛下がおみえです」
先触れの無い、陛下のお越しに嫌な予感がした。
「ラムセス、結界を。
明日、年始の挨拶に来る直前に、一時的にフォード邸の全ての家人からココの記憶を消せるか? ココをしばらく王宮の奥深くで保護したい」
「陛下、どういうことですか?」
「ラムセス、近衛兵のルイスをそそのかしココに敵意を持つように誘導したのが、ラナ見習いのヘクターだった。そのヘクターの後ろには東の帝国の存在が判明した。
ココの皿に塗られた薬も東の帝国固有のものだ。痺れ薬だが、蓄積系の毒でもある。解毒方法は東の帝国から門外不出だ。毒で弱ったココを、解毒のために東の帝国に呼びよせるつもりだったのだろう……あわよくば、ココに同行するラムセスを囲い込む算段だったのかもしれない。
東の帝国には、宝物を見つけたら奪って隠す習慣がある」
「宝物……それがローズだと」
「ココが狙われているのは明らかだ。
ココの身柄がフォード邸にあると判れば、ココの情報を取るためにフォード邸の家人も狙われる。すでに間者が潜入している可能性もある。就任後、ラムセスの魔力が上がり定着すれば危険も少なくなる。それまでの間、ココを王宮で……」
なんてことだ、東の帝国だと! 過激で執念深い国だ。
「陛下、当家は身元審査を通った使用人しか、この数年顔ぶれは変わらず」
「ラムセス、ヘクターとて身元審査をすり抜けた、絶対はない」
だが、王宮でローズは狙われた。
「陛下、王宮の奥深くとは?」
「新館だ、王宮からはミヤとエルをつけ、国王付きのメイドとフットマンも付ける」
「陛下! エルを……」
ローズが紅茶紳士と呼んでいる、私の紅茶の師でもあるエルを……つい「エル」と昔のままの呼び方をしてしまうが、陛下の教育係であり育ての親であるエルネスト・ロベール侯爵をつけると……。
以前から陛下を通してエルとは面識がある、なかなか癖のある博識者だ。現在は王家の執事長として家政を取り仕切っている、ローズが王宮に運ばれた時もローズを見定めに来ていた。
その後も「紅茶紳士」と呼ばれていることを知ると喜んで、ローズにお茶を淹れに来ていた。間違いない人選だ。
「ああ、少数精鋭だ。秘密の共有は少ない方が良い。ランカスター卿とエリカ殿が滞在する体をとる」
それだけの人選をするほど危険なのか……。
「陛下、今すぐローズを王宮に」
「ココにも準備があるだろう。それに……記憶操作の際にはランカスター卿を派遣する予定だ」
「いえ、万が一にも今夜、東の帝国の手の者にフォード邸が襲撃されたら悔やみきれません。ローズには私から話します」
「ヨハン、ローズとヒースを呼んでくれ」
私は結界を張り直した。
「陛下、家人からローズの記憶を消すにあたり、操作内容と言いますか、その後の辻褄合わせをどのように?」
陛下は記憶操作の第一人者だ、私は陛下に助言を求めた。
フォード家当主として、家人への記憶操作は私が責任を持つ。
「ラムセス、気負うな、焦るな。
無理がないのは『筆頭魔術師に内定したその日、ラムセスは一人で屋敷に戻り、そのまま就任の日を迎える』という筋書きだ。
もう一つは、少し無理はあるが『筆頭魔術師内定の日、ラムセスは魔力切れをおこし王宮で眠り続けたことにする……ラムセスは明日か明後日に目覚め王宮で休養をとり、1月10日に就任の日を迎える』という筋書きだ」
無理がないのは前者……そうだろうか?
前者を選べば、就任の日までフォード邸から出仕することになり、ローズの側を離れる事になる。後者を選んで記憶操作した家人を放置することも出来ない。
「ラムセス、今日の今日で決断は無理だ、明日にしろ」
今はローズの危機回避と家人の安全を優先すべきだ。
「陛下、私は前者を選ぶべきですが、それは私には耐えられません」
「そうか……。
後者の方が、ラムセスだけがココの記憶を有して、ココを忘れたフォード邸で過す負荷から解放される時間が多いだろう、就任の日まで王宮に滞在してくれ」
ローズの喘息発作は夜から明け方にかけて出やすい。その時間だけでもローズの側に……。
「後者を選びますが、目覚めた後は昼間にフォード邸に顔を出します。夜間は王宮で待機したいと考えます」
「ラムセス、わかった」
「陛下、今夜……深夜、皆が寝入った時に記憶操作を行います。その時、私は魔力切れを起こすと思います。その間、ローズをお願いします」
「ラムセス一人では危険だ。今からランカスター卿を呼ぼう」
「陛下、そうしていただけると……ただローズの側が手薄になるのは……」
「ならば深夜にココと一緒に王宮へ」
「陛下、ローズには私の弱った姿を見せたくありません」
「その気持ちは理解できるが、そんなに急いで決めなく──」
「陛下、私は無意識だとまたローズを強く求めてしまいそうです。ですから──」
「お嬢様がお見えです」




