マルク・ステードの人生【中編-37】
『デュロスは父リュートの言葉にこう返した。災いをもたらす【罪】であっても、ルナリスが創りし動物たちが我を助けた。ルナリスは我に【罪】を与えたが同時に【慈愛】も与えてくださった。』
マルクのページを捲る手が止まった。慈愛などどこにあったのだろうか。口から滴り落ちる果汁を乱暴に裾で拭うと一心にページを遡った。確かめるように文字に目を滑らせる。何度も、何度も。けれども【慈愛】という言葉は見つからなかった。
『ダナは山羊となり鷲となり土竜となり、困難を前にすると、たびたび姿を変えて、我を愛し、我を讃えた。そこには【愛】しかなかった。父リュート、汝はどうだ。ダナは汝の前に姿を現したか。その問いにリュートは答えることが出来なかった。』
マルクは思った。母の愛についての記述はなかった。けれどもデュロスは愛を感じていた。なぜだ。なぜ、ダナからの愛を感じたのだ。ダナと動物たちの繋がりはなんだ?
『それは【慈愛】ではなく【慈悲】だ。汝を哀れに思うたルナリスの【慈悲】だ。デュロスは首を横に振った。【慈悲】だとしてもそれは【愛】と変わらない。ルナリスから与えられた【慈悲】はダナからの【慈愛】なのだ。』
そんなの思い込みだ。デュロスがそう思いたいがための妄想だ。だが、そう思うたびにマルクの胸の奥底に何か希望めいたものが浮かび上がってくる。文字には記されていない。
けれども、デュロスの困難には必ず手が差し伸べられていた。これは想像の域を出ないがダナが歩んだ軌跡が、もしかしたらデュロスを助けたのかもしれない。動物たちを動かしたのかもしれない。マルクはふと、そう思った。
『父リュートの前でそう告げたデュロスはその地を去った。ここはデュロスの居場所ではなかったからだ。どんなに血の繋がった一族がいようと、どんなに肥沃な土地であろうと、そこに他者を助ける【愛】はないと感じたからだ。』
『デュロスは、再び旅に出た。今度は己の居場所を探すために。どんな困難にあおうともデュロスは恐怖を感じることはなかった。ルナリスの【慈悲】とダナの【慈愛】があるからだ。』
まだ続きがあったがマルクは本を閉じた。暖をとっていた毛織物の上掛けはマルクを囲うように落ちており、二房あったブドウは茎を残し、全て平らげていた。いつの間にか陽は高く昇っていた。
太陽の光はあんなに眩しかっただろうか、鳥の音はあんなに可憐だっただろうか。久々に世の中を見た気がした。
マルクは立ち上がると窓辺に近寄り、カーテンを握りしめながら外を見下ろした。三階のマルクの部屋は見晴らしが良い。下では使用人たちがあくせくと手や足を動かして働いている。
それをぼんやりと見つめながらマルクは考えた。デュロスの罪は母を殺して産まれたことなのだろうか。それが本当に罪なのだろうか。
話を聞きたいと思った。子を産んだ母に。子を産む母を見守ったものに。どんな子がいたのか、どんな母がいたのか。マルクは多くの話が聞きたいと思った。
窓辺から離れ、扉に近づくと隙間を僅かに開けた。幽鬼のような姿のマルクに使用人たちは驚き腰を抜かした。だが、マルクは気にもせずに使用人に声を掛けた。
「マーガレットを呼んでちょうだい。」
久しぶりに声を出したため、カスカスで聞き取りづらい音ではあったがそうはっきりと告げたのであった。




