マルク・ステードの人生【中編-38】
「オリビア様っ!」
血相を変えて部屋に飛び込んできた侍女はソファに座っていたマルクを見て膝から崩れ落ちた。侍女は這うようにマルクに近づくと膝の上に乗っていたマルクの少し潤いを失った手に触れ、涙を流した。
「オリビア様、オリビア様。」
泣きながらそう何度も縋るようにマルクの膝に頬を寄せる。マルクはそれを見下ろしながら口を開いた。
「マーガレット、お湯の準備を。」
まだ虚ろう瞳でぼんやりと前を見つめながらそう告げると侍女は少し呆然としながらもハンカチで涙を拭き、頷いた。
「湯浴みをしている間に部屋も片付けておいて。」
まだ、オリビアを演じる力がないため少しぶっきらぼうにそう告げると立ち上がりベッドに近づくと横になった。
「それが終わったら、産婆を呼んで。経験豊富でたくさんの母子を見てきた産婆を。」
少し喋りすぎた。喉が先程よりも掠れて、乾燥しているのかくっついているような気がする。水を飲みたいけれど、夜通し起きていた体が悲鳴を上げている。
侍女が困惑しているのが空気でわかる。寝そべったまま侍女の方へと体を向けると、やはり困惑している侍女と目があった。
「聞きたいことがあるの。すぐに来れないなら都合の良い日を聞いてきて。」
お湯の準備ができたら起こして、そう伝えると寝返りを打ち、背を向けた。なんだか取ってつけたような言葉遣いではあるが気にする余裕もなかった。
足早に部屋を出て扉を閉めた音が聞こえるとマルクはゆっくりと瞼を閉じた。うとうとと頭が七割程動かなくなって、後少しで意識を手放す、そんな時に喧しい声が聞こえてきた。
「オリビアっ!」
呼んでもいない人物がけたたましい足音と共に乱暴に扉を開けて入ってきた。マルクが動いたと侍女から聞いたのだろうが、いささか登場が早すぎる。マルクは目を瞑り眉間に皺を寄せるも仕方がない、と重たい体を起こした。
その人物は執事がいつの間にか用意したベッド脇の椅子に座るのが横目に見えた。
「どうだ、体調は。何か食べるか?」
迷惑を掛けたのは謝るが今は休ませてくれ、そんな言葉が出そうになるがぐっと飲み込んだ。とにかく最低限、オリビアを繕わなければと顔を上げようとしたが公爵の大きな手がマルクの両頬を包み込んだ。まるで壊れ物を扱うかのように優しく触れた掌からは人の温もりを感じた。冷たい見た目だが、血が通っていたのかと見当違いなことを思ってしまった。
頬を包まれながら顔を上げさせられると春の陽射しを浴びたような綺麗な新緑の瞳とかち合った。その瞳は僅かに揺れていた。
「だいぶ痩せたな。」
親指でマルクの頬を撫でながらそう呟いた。痩せやつれたマルクを戸惑ったような、安堵したようなそんな笑みを浮かべて見つめた。マルクの方が呆気に取られてしまっていた。
「ご迷惑を、お掛けいたしました。」
そう答えると公爵は緩く首を横に振り、マルクの頬から手を離した。その手を自分の膝の上に拳を作り置き、先程とはうって変わって険しい顔付きでマルクを見つめた。
「産婆を呼んだと聞いたが。」
マルクは、ああ、と一人納得するとやましい事はないとしっかりと公爵の目を見つめた。
「別に乱暴をされたとかではありません。」
はっきりと告げるとあからさまにほっと胸を撫で下ろす姿に少し苛立った。
「それと公爵様の子を妊娠したいからという理由でもございません。」
するとなぜか少し残念そうに眉を下げる公爵がいた。もしかして、妊娠したいから呼んだとでも思ったのか?頭がおかしいんじゃないか?
「ではなぜ産婆を?」
至極真っ当な疑問だ。乱暴されてもいないし妊娠の可能性もない。ましてや妊娠したいわけでもない。産婆を呼ぶ理由なんてない。けれど。
「知りたいのです。母がなぜ子を産むのかを。」
まっすぐ、ただ真っ直ぐ公爵の目を見つめた。知りたかった、なんで死ぬとわかっていて子を産むのかを。子を産むというのはどういうことなのかを。それを知れば、マルクは前に進める気がしたから。




