マルク・ステードの人生【中編-34】
疲れたと言いながらも身についた習慣はなかなか抜けないもので、体を綺麗に拭い寝間着を身につけるとベッドに沈み込んだ。あのまま湯船に沈んでも良かったが、この体が遺体として見つかってしまったら、もしかしたらマリーやロベーヌ神父に迷惑がかかるかもしれないから。それだけは、避けたかった。
ゆっくりとゆっくりとベッドに溺れるように沈み込んでいく。本当に沈み込んでいるのか、それとも意識が沈み込んでいるのか分からなかった。でも、とにかくゆっくりと沈んでいった。
そうして、マルクは部屋から出なくなった。
最初の頃は侍女や公爵が心配して声を掛けてきたが頑なに部屋には入れず、一人にして欲しいと扉の向こうから訴え続けた。すると生存確認のためか『おはよう』と『おやすみ』の言葉だけ、毎朝毎夜、一方的に告げてくるようになった。
日がな一日ベッドに横になり、窓の外を眺める。輝かしい爽やかな朝日が窓から差し込み、陽が高く昇るとその生命の強さが増し、そして傾くごとに静かに灯火が消えるかの如く闇に呑まれる。それを何度、眺めたのだろうか。
何もやる気が起きないが体は命を繋げようと腹を空かせる。卑しいものでここ数ヶ月、満足に食事をし贅沢を覚えてしまった体は食べ物を欲するし喉の渇きにも耐えられない。けれども、誰にも会いたくないし、話すのも億劫だ。
だから、扉の隙間にメモを差し込む。欲しいものだけを書いて。するとノックの音が聞こえてしばらく待ってから扉を開けるとワゴンに少しの果物とパン、そして水差しがあった。それを一口二口食べると眠り、お腹が空いたらまた食べる。普通の一食分の食料を三日かけて食べきっていた。
このままずっとこうもしてられない。けれども頭は回らないし、無感情に外の景色を眺めることしか出来なかった。外出をしてから何日経った、あるいは何週間経ったのだろうか。いつもと違う時間帯にノックの音が聞こえた。食料も昨日頼んだから違う。誰だ、と重い体で寝返りをうった。
「オリビア、本を持ってきた。」
低く艶やかなバリトンの声が聞こえた。公爵だ。
「マーガレットから聞いた。お前はいつも本を読んでいたらしいな。」
本、どのくらい読んでいなかったか。平民の時も伯爵家にいた時も、ここでも読みふけっていたのにこんなに本に触っていないのは初めてかもしれない。
「学問の専門書ばかりだと聞いたから、目新しいものを持ってきた。人気の本らしい、置いておくから気が向いたら読んでみてくれ。」
マルクがうんともすんとも返事をしていないのに、そう一方的に告げると足音が遠ざかっていく。ゆっくりと体を起こすと扉をじっと見つめた。何もする気は起きないけれど、でも、なんだか手に取りたくなって扉を開けた。
食事の時の様にワゴンに本が山積みにされていた。革や絹の装丁から普通の布の装丁まで、様々な色と手触りの本だった。扉の隙間からそれらを中に入れると適当に一冊を手に取って、タイトルを指でなぞりながら口にした。
「『デュロスの冒険』か。」
そういえば、物語なんて腹の足しにもならないから読んだことがなかった。普段なら興味を持たないが、なぜだか読んでみたくなった。
デュロス。ルナリスの子ダナの命を奪い生まれてきた哀れな子の物語。マルクが知っているのはそれだけだ。




