マルク・ステードの人生【中編-33】
部屋に着くとマルクは取って付けたような笑みを浮かべながらソファに腰掛けた。背もたれには寄りかからずにいつもの様子で腰掛けて、侍女に目を向けた。
「マーガレット、お茶はいらないわ。湯浴みの準備が出来たらあなたも休んでちょうだい。」
扉の近くに控えていた侍女にそう告げると、侍女は悲壮感を露わにしながら首を横に振った。
「やはり何かございましたか?あの神父が、いえ、やはりあの平民がっ!」
声を荒げる様子に力なく首を横に振り、ソファの背に体を預けた。
「人の多いところに出て、疲れてしまったの。今まで一人が多かったから。」
そう苦笑すれば、侍女は言葉を詰まらせてスカートを握りしめた。ぐっと顔に力を入れたかと思えば表情を繕い、マルクをまっすぐと見つめる。だが、眉は苦しげに皺が寄っていた。
「思い至らず申し訳ございません。準備が出来ましたらお呼びいたします。」
侍女が部屋を出て行こうとした瞬間、マルクは呼び止めた。侍女はこちらに背を向けたまま身構えている。
「マーガレット、心配してくれてありがとう。」
そう声をかけると侍女の肩が僅かに震え、こちらを見ずに軽く頭を下げるとそのまま扉を開けて出て行った。
広い広い部屋の中に静寂が訪れる。聞こえるのは木々の葉が風で擦れ合う音とじりじりと蝋燭の芯が焼ける音だけ。まるでこの世にはマルクしかいないのではないか、そんな風に思えてしまう、そんな静けさだった。
マルクはソファに体を預けながらずるずると横に倒れた。見えるのは大理石でできたローテーブルの天板と対となっているベルベットの深紅のソファだけ。いつの間にか、この豪華な家具が見慣れた風景になってしまった。
自分はいつでも、どんな時でも『マルク・ステード』だった。そのつもりだった。表には出せなかったが賢く強かな男の様に心の内では振舞っていた。それが『マルク・ステード』だった。だと思っていた。けれど、本当のマルクは弱くて惨めな人間だった。自分の気に入らないものは全部が悪で、弱いものを守っている気でいた騎士気取りの、本当に気取っていただけの矮小な人間。ハリボテな人間。今日、それをありありと突きつけられた。悔しいのか、悲しいのか分からない。ただただ自分がいる場所が分からなかった。
自分は『マルク・ステード』なのか『オリビア・オブライアン』なのか、それとも。もう、自分の名前も居るべき場所も分からない。
湯浴みの準備が出来たのか扉をノックする音が聞こえた。鉛の様に重くなった体を起こすと、鎖にでも繋がれているのか、足を引きずるように歩きながら浴室の扉を開いた。
部屋には湯気が立ち上っており、それだけでも充分に温かい。着ていた服を一枚、また一枚と脱いでいき一糸纏わぬ姿になれば、いつもの癖で下腹部に触れようとして止めた。何も気がつかないふりをして、視線も下げずに湯船に体を沈めた。水面には波紋が広がり、その揺らめきをじっと見つめた。じわりじわりと冷えていた体にお湯の温かさが染み込んでいく。それに伴って体の力が抜けていく。
最初に手の力が抜け、肩の力が抜け、脚の力が抜けていく。表情も抜けていく。今日は本当に色んなことがあった。何週間、いや何ヶ月間、何年間もの疲れがマルクに襲いかかってきたような一日だった。本当に疲れた。本当に。
そう思いながらマルクは窓の外を眺めた。夜は始まったばかりだ。これからどんどん闇が深く濃くなってくる。今夜は新月。いつもより闇は濃くなるだろう。もう動きたくない、もう何も考えたくない。もう、疲れた。




