マルク・ステードの人生【中編-31】
重い扉が開く音が聞こえた。あぁ、マルクでなくなる時間が来たのか、と腰を曲げ両手で顔を覆った。マルクではなくなる。でも、この顔はマルクではなかった。オリビアだった。だから、元々マルクはいなかったのではなかったのか。
そんな答えの出ない問答を繰り返しながら複数の足音が聞こえる方へと顔を向けた。侍女と公爵がこちらを見て、青ざめていた。侍女の方はすぐに幽鬼のように目を釣り上げるとマルクの隣に座っていたマリーに目を向けた。まるで令嬢らしくない怒りが籠った足音を鳴らしながらマリーの前に立つと頬を張った。肌がぶつかる音が教会にこだました。
「平民無勢がっ!オリビア様に何をしたっ!」
頬を押さえ、呆然としている侍女がさらに手を振りかざした。
「やめろっ!」
マルクはマリーに覆いかぶさり声を荒げた。マルクの中で震えているマリーを守るようにぎゅっと強く抱きしめる。
「オリビア様?」
侍女のか細く震えた声に我に返った。今、どんな口調だった?どんな声色だった?ここにいるのはオリビアでなければいけないのに。じゃないと今みたいにマリーが叱責を受けてしまうのに。自分のことばかりで、衣服が乱れたマルクの隣にいればマリーがどんな目に合うのか考えに至らなかった。
今はオリビアにならなければ。オリビアに。唇をぎゅっと結んでからゆっくりと息を吐く。儚げで美しいオリビアになるために。
「やめてちょうだい、マーガレット。この方はわたくしの恩人よ?」
鈴の音を転がすような可憐な声を出す。戸惑っている侍女に何事もなかったように立ち上がり振りかぶっていた侍女の手を取り、下ろさせるとふんわりと両手で包み込む。
「この方はわたくしが人混みで転んでしまった時に手を差し伸べて教会まで連れてきてくれたのよ?」
マリーの頬を叩いた手の甲を優しく撫でた。
「感情に任せて相手にその思いをぶつけてはいけないわ。マーガレットらしくない。でも、わたくしのせいで取り乱してしまったのよね、ごめんなさいね。」
そう優しく微笑むと侍女は目にいっぱいの涙を浮かべた。力が抜けたように膝を付き、縋るようにマルクの手に頬を寄せた。
「オリビア様、オリビア様。ご無事で本当によおございました。」
公爵もロベーヌ神父もマリーもいるのに、崇拝に近い気持ちを露わにしている。オリビアの演技は上手くいっていたようだ。安堵し息を零すとロベーヌ神父が哀れみをこちらに向けていた。それはマルクになのか侍女になのか。どちらかは分からないが、責められている様な気分になり顔を逸らした。
「マーガレット、さあ立って。そんなに泣いてしまったら目が溶けてしまうわよ。」
そう言って侍女の綺麗に整えられた髪を優しく撫でる。嗚咽を漏らしながらも自分の役割を思い出したのか立ち上がり、絹でできたハンカチで目元を拭っている。マルクは佇んでこちらを見下ろしていた公爵に向き合うと、申し訳なさそうに眉を下げ薄く微笑んだ。
「公爵様にはご迷惑をお掛けいたしましたこと、お詫び申し上げます。」
頭を下げると、薄く華奢なマルクの肩を分厚い掌が掴んだ。顔を上げると公爵も今にも泣き出しそうな、いや目尻に薄っすらと涙が浮かんでいる。
「怪我は、ないんだな。」
「こちらのご婦人と神父様が助けてくださいましたから。」
マリーとロベーヌ神父を見てから公爵に笑みを向ける。すると、肩を掴んでいた公爵の手が背中に回り少し距離が縮まると背中を数度撫でられた。
そしてそのままマルクの肩を抱くと、歩き出した。
「妻が世話になった。」
マーガレットが付いてくるのが分かった。正面扉に向かっているせいでマリーとロベーヌ神父がどんな顔をしているか分からなかった。マルクの、女としての生き様をどんな顔をして見ているのだろうか。
「オリビア様!」
講堂に響き渡るロベーヌ神父の声に、マルクだけではなく公爵も侍女も足を止め、振り返った。ロベーヌ神父はまっすぐとマルクを見つめている。遠いから表情までは分からないが、でも目は合っている気がした。
「大丈夫ですよ。」
何故か、その言葉に涙が溢れそうになった。何が大丈夫なんだ。母さんが不幸だったのも、死んだのもマルクのせいなのに。でも、その言葉は少しマルクの心を軽くしてくれた。
スカートを摘み腰を落として、令嬢らしいカーテシーをロベーヌ神父に披露すると小さく微笑んでから教会を後にした。




