マルク・ステードの人生【中編-29】
「マルク。」
声を掛けられると水瓶から顔を上げた。そこにはマリーが今にも泣きそうな顔をして立っていた。
「なんで、戻ってきたの?」
出てきた声はかすかすだった。喉が染みるように痛く、表情を作ることが出来ない。マリーは帰ったはずなのに、なんでここに。水瓶の縁を力を込めて握るとマリーは近づいて俺の手を優しく包み込んだ。
「神父様が呼びに来たんだよ。神父と言えど男と憔悴しているお貴族様が二人きりじゃ、体裁が悪いって。」
俺の顔がよほど痛々しかったのか、マリーの肉厚の手のひらが俺の頬を包み込む。じんわりと広がる人肌にまた、涙が出てきそうになる。これはなんの涙なんだろうか。もうわからない。
「とにかくお座り。」
肩を抱かれるも足に力が入らない俺はマリーに寄りかかるようにして歩き、椅子に座った。自分の頬に手を当てマリーの温もりを確かめる。さっきまで温かかったのに、もう冷んやりとしていた。
マリーは濡れた麻の布切れを手に、俺の前に膝を付くと優しく頬を拭い始めた。どうしてこんなにボロボロになっているのかも、表情が抜け落ちているのかも聞いてこない。
もしかしたら、ロベーヌ神父から何か聞いているのかもしれないけど。でも、マリーは顔を綺麗に拭い終わると濡れた麻の布切れをテーブルに置き、纏めていたシニヨンを解くと手で梳き始めた。入念に手入れされた髪は手櫛でも引っかかることはなくすりすると指を通していく。
昔はこんなんじゃなかった。ギシギシで、手櫛じゃ髪を梳くことは出来なかったし、髪を梳く櫛もシラミを取る櫛もなかなか通らなかった。皮膚を引っ張られるのが痛くて嫌だったけど、僅かな母さんとの時間だったから嫌いじゃなかった。
あぁ、俺はいつも母さんの事ばかりだ。いつだって、どんな時だって母さんを思い出してしまう。蹲るように膝に自分の額をつけた。もう出てこないと思っていたのに、どんどんと溢れ出してくる。あの幸せだった時間も、もしかしたら母さんにとっては苦痛だったかもしれない。俺だけが幸せだった時間かもしれない。
スカートが皺になり、濡れる。枯れるほど泣いたのに、泣いたはずなのに、まるで湧き水のように涙が出てくる。
「折角、綺麗にしたのに泣くんじゃないよ。」
体を起こされるとぼやけた視界の先でマリーと目が合う。いつの間にか髪の毛は綺麗に一つ結びにされていた。少し乱暴に頬と目元を拭われると、そのまま布切れを目元に押し当てられた。
「これで目の腫れが少しは引くだろ。」
布切れを押さえると、目元に帯びていた熱がじわりと布に移っていく。マリーが向かいの椅子に座ったのが音で分かった。
マリーは何も聞かない。俺も何も言わない。ただ沈黙だけが、流れていた。けれど、その沈黙に耐えることが出来なくて口を開いた。
「母さんは幸せだったと思う?」
マリーの座っていた椅子が動いたのが音で分かった。沈黙に耐えられないなんて、嘘だ。マリーの目から見た母さんを知りたかった。母さんは俺を愛していたのかを。
マリーは何も言わない。ただ、視線を感じる。嘆いているのか憂いているのか、それとも怒っているのか。どんな気持ちで俺を見下ろしているのか分からなかった。
目元の布を外して顔を上げれば、マリーがどんな気持ちなのかはすぐにわかる。わかるけど、答えが解ってしまいそうで怖くて見れなかった。
どすんと椅子に座ったであろう重い音が響いた。
「それはあんたが一番よく知ってるだろっ。」
その声は少し怒気を孕んでいた。母さんの気持ちなんて知らないよ。一度も聞いたことがなかったんだから。だから、知りたいんだよ。
「サラと、どう過ごしてきたか忘れちまったのかね。」
覚えてるよ。でも、覚えているのは母さんの笑顔だけ。それが本当かどうかわからない。




