マルク・ステードの人生【中編-17】
「公爵様はこれから如何なさいますか。」
商店の裏にいるのはマルクと公爵、侍女と執事、そして2名の護衛。それぞれが主人の背後に控え、マルクと公爵は向かい合っていた。裏口の扉の前には商店の主人なのだろう、平民にしては仕立ての良い服を着て、媚を売っているような嫌らしい笑みを浮かべて様子を伺っている。
「あー、その、なんだ。」
言い淀み、マルクから視線を逸らすように漂わせている姿に苛立つ。やはり何か用があって平民街に来たのではなかったのだ。呆れを顔に出さずに呆れる。
「では、公爵様。わたくしは市場を見てまいりますので。わたくしに気にせずご用をお済ませくださいませ。」
気づいてはやらない。一緒に行こうとも言ってやる義理はない。何も気がついていないふりをして、歩き出す。慌てるように侍女と護衛がついてくるのが足音で分かった。公爵は、あ!とかその!と声を上げているがそのまま聞こえないふりをして、メインストリートに出た。
日陰から陽の差す方へ。舗装されていない道は、砂利があり、歩きづらい。しばらく砂利が靴の裏と擦れる音を響かせていた。日陰が終わり、陽の当たる場所に出るとマルクは言葉を失った。あの頃と変わらない景色が広がっていたから。香水や花の芳しい香りなんてどこにもない。土埃と溝と食べ物の香りが入り混じった、決して良い匂いだなんて言えない。でも、マルクはこの匂いが好きだ。
肺いっぱいにソレを吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。心は踊るが気を引き締めなくては。
「行きましょうか、マーガレット。」
振り返り、少し眉間に皺を寄せている侍女を見た。慌てて笑顔を浮かべたが顰めていたのは分かっている。どうせ、こんな場所に自分、もしくはオリビアには相応しくないとでも思っているのだろう。
最近の侍女は表情が豊かになった。笑い、はしゃぎ、怒り、悲しむ。
侍女として失格だろう。最初は能面で、執務に忠実で、主を公爵とし、主の許可にないことをマルクがしようとしたら冷たい目で言うのだ。
「おやめください、奥様。」
と。それが今やどうだ。マルクが笑えば同じように笑い、マルクが悲しむと涙ぐみながらマルクを慰める。マルクに失礼な態度を取れば、主人である公爵にも噛み付くほど怒りを露わにしてしまう。本当に侍女として落ちぶれたな。
気がつかれないようにほくそ笑むと歩みを進め、平民街で一番活気のある市場の入り口に着いた。怒鳴るように話す声に、子供は人がいてもお構いなしに人の合間を縫うように走り抜ける。肝が据わっていそうな女たちは豪快に笑いながら井戸端会議をしている。圧倒されてしまう。ずっと伯爵家や公爵家に閉じ込められていたのだ、この懐かしい熱量をマルクはすっかりと忘れてしまっていたらしい。
「ここに、入るのですか?」
侍女に可憐な笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、すごく楽しみにしていたの。行きましょう。」
足取り軽く、一歩踏み出す。人混みの中に一歩、また一歩と。慌てるように侍女も護衛も人混みに足を踏み入れた。ここにいる人間はマルクより背が高い。そしてごった返している。これを狙っていた。
マルクは腰を少し屈めると人混みの壁が出来上がる。侍女が戸惑ったようにオリビアの名を呟いたのが聞こえた。そして声を張り上げ始めるとマルクはスカートをたくしあげて一気に走り出した。人と人との合間を縫うように、昔、リック、ダミアン、ルークと走り抜けたように。
しばらくすると息が上がってくる。だが、このまま足を止めてしまえば侍女と護衛に追いつかれてしまう可能性がある。だから、足を必死に動かした。動かして、動かして動かし続けると見慣れた細道が目に入り、方向転換してその細道に入った。壁に寄りかかり上下する胸を落ち着かせると奥に進む。真っ直ぐ行って、右に曲がり、また真っ直ぐ行って、今度は左。また真っ直ぐ行くとボロボロのアパート群が見えてきた。その中の一つのアパートの扉に手をかける。
扉を開けると錆びついた音が響いた。木の香りと埃の匂い。埃が肌に触れると痒くなった。頬を指で掻きながら中に入ると今にも抜けそうな床が軋む。階段は所々穴が空いている。走ったら更に穴が広がるだろうが駆け上がっていく。
心臓が早くなっている。息も上がっている。
三階に着くと右の一番奥の部屋の前で足を止めた。落ち着け、落ち着けと何度も心の中で呟いた。震える手でドアノブを掴むとゆっくりと開いた。
まるで夜逃げしたかのように中は物が乱雑に散らばり、ガランとしていた。あの時のままだ。あの時のままで、時間が止まっている。
もう、母さんの匂いはしない。けど、母さんがいた痕跡が今も残っている。
「おかえり、マルク。」
母さんの優しい声が聞こえる。
「またケンカをしたの、マルク。」
母さんの怒った顔、実はあんまり怖くなかった。
「マルク、すごいじゃない。」
カサついていたけど柔らかい掌の感触が頭に感じる。
鼻の奥がつんとする。涙で前が見にくい。
母さんは確かにここにいた。ここでマルクと一緒に生きていた。ここに来たかった。ずっとずっと来たかった。
「あんた、ここで何をしてんだい!」
怒鳴り声に、マルクは体を硬直させた。
ああ、まだ居たんだ。居てくれたんだ。
「ここはお貴族様がくる場所じゃないよ!さっさと帰んな!」
歳を取ったんだな。ちょっと声が嗄れている。マルクはゆっくりと声がした方を向く。未だに涙が滲んでいる。マルクの顔を見た声の主は息を呑み、顔が青ざめている。
「サラ、なのかい?」
震える声で母さんの名前を呟く。
「バカだなぁ、母さんは死んだじゃないか。」
涙が頬を伝うも笑顔を浮かべる。その言葉に俺が誰か、気がついたらしい。今にも号泣しそうに顔を歪ませている。
「マルクっ!」
久しぶりにその名前を聞いた。その名前を呼んでくれた。マルクは走り出す。大きく広げられた腕の中に。
「久しぶり、マリー。」
力いっぱいに抱きしめるとマリーも同じくらい、いやそれ以上に強く抱きしめ返してくれた。
マリー、お節介なマリー。母さんの世話を焼いてくれた救護院の産婆のマリー。




