マルク・ステードの人生【中編-15】
マルクは馬車に揺られていた。王城に近い公爵邸を出発し、貴族街を抜けていく。初めて貴族街を見た時を思い出した。貴族街にある邸宅の一つ一つがマルクが住んでいた伯爵邸と雲泥の差があった。これを貴族街の端の古い伯爵邸から眺めていれば、もっと良い屋敷を、もっと良いドレスを、もっと良い宝飾をと散財するわけだ。もうとうに切れた、と思いたい血が僅かに繋がっている人間たちを思い出した。
外の景色が少し様相を変えていく。それでも貴族街に近い富裕層のエリアなためか屋敷の外壁の汚れはなく整えられた街並みで、おすまし顔な紳士淑女が歩いていた。
どんどんと馬車が進んで行くと街並みの様子も変わる。土埃が舞い、外壁は薄汚れ、着古した服を着ている人々。貴族街や富裕層エリアと比べものにならないくらい汚くて、でも活気があって騒がしい。マルクはそんな人々を窓から見つめて、綻んだ。
あぁ、懐かしい。肩がぶつかりそうなほど道に溢れかえっている人も荒々しくも生き生きとしている表情も豪快でけたたましい笑い声も、何もかも懐かしい。やっと戻ってきた。やっと。
そう窓の外を食い入るように見ていたマルクの体が跳ねた。バランスを崩し、窓におでこがぶつかりそうになった瞬間、マルクの額がゴツゴツしたものに包み込まれた。
「大丈夫か、オリビア。」
こいつが付いて来ている意味が分からない。額に当てられた手をそっととり、守ってくれた人物を見やる。
「大丈夫ですわ、公爵様。ありがとうございます。」
にっこりと笑いながら礼を言ってやると満足そうに頷きながら公爵は座り直した。
◾️
事の起こりは、マルクが街へ行きたいと願い出た日。マルクの願いを聞いた公爵は顔を歪めた。隠された公爵夫人だ、やはり表に出るのはまずかったか。マルクはスカートの裾を僅かに握りしめた。
「やはり、だめでしょうか。」
髪と同じ色の睫毛を伏せると朝の陽の光を浴びてキラキラと光る。公爵は何も言わない。気まずい沈黙が続くが、マルクも暇じゃない。こんな嫌な朝食はさっさと済ませたい。そっと上目遣いで公爵を見るとまだ顰めっ面をしてマルクを見ていた。
「一週間後、一週間後ならいい。」
そう消え入りそうな声で呟くと食事もそこそこに立ち上がり食堂を出て行った。
マルクはただただ口を開けるしかなかった。まあ、許可が貰えたのだからいいだろう。マルクは公爵のいなくなった食堂でのびのびと食事を再開した。
一週間後、マルクは立ち襟のシンプルなブラウスに藍色の細いリボンタイ。優雅にたなびくリボンタイと同じ色のスカートに上質なショートマント。髪はいつも通りのシニヨンにして、鏡の前に立っていた。いつもより暗い色でいつもより地味な、裕福な商家のお嬢さんに見える。
ノックの音が聞こえると、マルクは鏡から視線を外した。
「どうぞ。」
そう言えば部屋の外で待機していた侍女が部屋の中に入ってきた。
「どうかしら、マーガレット。」
侍女の前でくるりと回って見せると少し照れくさそうに笑って見せた。すると侍女はまるで祈るように指を組み、何度も頷いた。
「とてもお綺麗です、オリビア様。どんな装いでもお似合いです。」
あの、花器の一件から使用人からのマルクの評価はさらに上がった。優しくて美しいだけではなく知識にも富んでいる。なんて素晴らしいんだと囁かれているのを知っている。マルクの影響力がどれほどかを恍惚とした表情で語ってくる侍女がいるから。こんなに口が軽いのはマルクのためなのか、それとも元々の性格が露見し始めているのか。まぁ、マルクにはどちらでもいいことだった。
「ありがとう、マーガレット。そろそろ行きましょうか。」
「そうですね、公爵様もお待ちです。」
喜色ばんだ笑顔を向けてきた侍女にマルクは息が止まった。公爵が、待っている?どういうことだ?なぜ、公爵がマルクを待っているんだ。背中から汗がつぅっと流れていくのを感じた。
「公爵様がお待ちに?どうして?」
顔には出さず、なんとかオリビアの表情を貼り付けながら尋ねた。マルクは自分が考えついている事を否定して欲しかった。だが、残酷な言葉にマルクは膝をつきたかった。
「公爵様も一緒に行かれるそうです。」
想定外も想定外。要らぬものまで付いてくる絶望にマルクは打ちひしがれるしかなかった。




