マルク・ステードの人生【中編-9】
マルクはあれから、変わった様子は見せなかった。何事もなく日々の予定をこなし、家令や侍女、使用人たちにいつものように笑顔を見せて過ごしていた。
だからこそ、侍女は不安だったのだろう。二人だけになるとマルクの前で膝を折り、指先が荒れ硬くなっている白い手を壊れ物のように両手で触れる。そして、そのまま掲げると手の甲を自分の額に触れさせるのだ。まるで女神に何かを乞うように。
そういう時、マルクは言ってやるのだ。
「大丈夫、大丈夫よマーガレット。」
優しく頭を撫でてやると侍女は強張っていた顔が解ける。マルクが慈愛に満ちた顔で微笑むとさらに涙を浮かべた。
憶測でしかないが、きっと侍女はマルクが公爵の言葉に傷つき涙に暮れて儚くなるのではないのだろうかと心配でたまらないのだろう。
しかし、マルクが変わりなく過ごし、懸命に、健気に日々を過ごしているのを見て、蔑みから同情へ、そして今は崇拝に近い気持ちに変わりつつある。だからこそ、マルクがいなくなるのが怖いのだろう。
マルクには好都合だった。雇い主である公爵よりもお飾りの妻の、何の権限も持たないマルクの気持ちを優先するようになったから。だからより一層、周りからも分かるように目をかけた。それが侍女の自尊心をくすぐるのが分かっていたから。でも、他の使用人に優しくするのも忘れない。孤立してしまうとかえってマルクが拠り所になり、行動を制限されてしまうから。
匙加減を間違えずに、侍女から他の使用人へと少しずつ少しずつ伝播させていく。まるで宗教のように、まるで毒のように。
そうして日々が過ぎていたある日、マルクは面白い本を見つけた。ダルニス共和連邦の歴史、経済、そして美術品について書かれている本であった。
ダルニス共和連邦、マルクが住むアルナレス王国から海を隔てて存在している複数からなる国。様々な宗教、文化があり、上手く均衡を保ちながら共存している国。学者が様々な事象をつぶさに観察し、書物を残し、それを基に農作物を育てている国。技術者が多く、あの広い大陸を馬が要らずに移動でき、農業や鉱業を助ける多くの道具を作り出す国。そして、壊れた物を大切にし永く使い大切にする国。
特にマルクが気に入ったのが『金継ぎ』という技法だった。壊れたものを金で繋ぎ、元の形に戻しながらも新しい姿へと生まれ変わる。それはまるでマルクにとって救いのような技法であった。壊れたものを捨てず、どんな姿になっても愛してもらえる。まるで夢のようだなとマルクは思った。
だから、侍女に金継ぎの技法が使われたものを見てみたいと頼んだ。金継ぎの説明したら、最初はそんな壊れたものより、もっと美しいものがあると諭されたが懸命に懇願するマルクにすぐに侍女は折れた。家令や執事、他の使用人に話を広め、出入りの商人にも聞いてくれた。さすがは公爵家の人脈。その広さですぐに現物を手に入れてくれた。そして職人までも見つけてくれた。マルクは嬉しくなり、その人物と手紙のやりとりを始めた。もちろん、公爵夫人ということを隠して。
技法だけではなく、ダルニス共和連邦のことについても尋ねた。この国にはない面白いデータや技術がたくさんあったから。この職人とのやりとりはマルクの唯一の癒しでもあった。
そうして、しばらく過ごしていたある日。
マルクにチャンスが訪れる。公爵を地獄に落とすための小さな小さな第一歩が。




