マルク・ステードの人生【中編-6】
どのくらいそうしていたのだろうか。母といつも見ていた夕暮れはあんなに暖かかったのに、今日のこのオレンジ色はすごく物悲しさがあった。もうオリビアを、マルクを、求めてくれる人はいないのだとお前は世界で独りぼっちなのだと言われている気がした。
夕食の用意が出来たと告げられると震える足で食堂へと向かう。食堂も豪華絢爛、パーティーが開けるんじゃないかと思うほど広いがポツンとオリビアの分のみがセッティングされたカトラリーが寒々しかった。公爵の所在を尋ねると首を横に振られた。本気でオリビアをいないものとして過ごすらしい。
席に付くと絵画のように盛り付けられた食事が運ばれてくるが食欲はなくため息が出た。だが食べなければ痩せ細る、オリビアの手がカトラリーの上を彷徨った。そう言えば、テーブルマナーなんて本は読んでいなかった。実用的かつ実務的なものを優先的に読み耽っていた。使うかどうかも分からないものに時間を割く余裕なんてなかったから。こんなことなら目を通しておくべきだった、人間、何が起こるかなんて分からないのは身を持って知っていたのに。自嘲するように小さく笑うと監視役が、お好きにお食べください、と囁いた。
オリビアは適当なフォークを手に取ると、野菜を刺して口に運んだ。
今までの人生の中で初めて食べた濃くて強い味が喉に絡まり、えづき、咳き込む。監視役がオリビアに水が入ったグラスを差し出すとあおるように一気に飲み干し手の甲で口を拭い、肩で息をした。
周りが先ほど以上に静まり返っている。そこでオリビアは貴族、いやその前に女性らしからぬ仕草をしたことに気がついた。
あれほど気を引き締めないといけないと自分自身に言い聞かせていたのにいとも簡単に、自分の素を出していたことを恥じた。伯爵家では常に生きるか死ぬかの状況だったから、この短い時間で蔑みや敵意の視線はあれど直接危害を加えられない環境に気を抜いていた。
「食べやすいパンをお持ちします。」
その言葉にオリビアは胸を撫で下ろした。男とはバレてはいないようだった。少しして、オリビアの前に白い小さなパンが二つ乗った皿が置かれた。それを見て、オリビアは小さく微笑んだ。白パンだ、母が生きていた時に買ってくれたあの白パンにそっくりだ。
女性らしい仕草をしなければと誓ったはずなのに、これは、これだけは齧り付きたかった。口に広がる小麦の甘み、母と食べた白パンとは違うけど、でも母の笑顔を思い出す。涙が出そうなのを堪えながら頬張り、ペロリと二つ食べ終わると自分の腹を摩った。白パンを食べられただけで自分はここに来て良かったと思ってしまった。
「お部屋にお戻りになりますか。」
冷たく見下した声にオリビアは息を飲み、小さく頷いた。
部屋に着くとソファに座り、あの白パンを思い出していた。きっと、あれを食べた母は目を見開き美味しいね、と頬を綻ばせたに違いない。そして、母さんの分も食べなさい、と言って半分を差し出したと思う。それを想像しただけで幸せな気持ちになった。
「湯浴みの準備ができました。」
そう監視役に言われると浴室の扉を開けた。もくもくと上がった湯気だけで体が温まりそうだった。
「お手伝いいたします。」
ドレスに手を掛けられた瞬間、手を弾いた。はっとするとドレスの胸元を掴み首を横に振る。
「か、らだを見られたくないので、自分で入ります。」
ピクリと眉が動いた。オリビアはわざと体を震わせて怯えた表情を浮かべて監視役を見た。小さく、本当に小さく息を吐いたのを見て納得したなと思った。それからワゴンに並べられていた石鹸やら香油やら、クリームやらの使い方を教わると監視役は頭を下げて出ていった。
オリビアは少し乱雑にドレスを脱ぐと濡れないように端に置いた。鏡に映った自分の姿を見つめる。浮き上がった鎖骨や肋にガリガリの腕、痩せてはいるがどう見ても女性らしい曲線を帯びている。しかし、女性とはいや、男性とも違う点がある。下半身にある傷が目に入ると勢いよく顔を逸らした。男でも女でもない自分は何者なのだろうか、自分を型作っているのはなんなのだろうか。
オリビアは湯船に入り、体を洗う。擦れば擦るほど垢が出てお湯に浮かんでくる。髪も梳けば梳くほどフケが溢れ落ちる。一通り体を清めるとオリビアは肩まで湯に浸かった。
お腹も膨れ体も温まり、力が抜けたのか頭がクリアになっていく。それに従ってやるべきことも明確になる。
まずは男だとバレないことが第一優先。そして、公爵家を出ていく。
好きにしていいと言われたのだから好きにしてやる。そのために、まずはマナーと教養だ。貴族令嬢に相応しいマナーと教養を身につけて、周りの見る目を変える。そうすれば幾分か動きやすくなるはずだ。そして、金になりそうな知識を増やしていく。
オリビアは、いやマルクは今度ははっきりと自分の下半身の傷をじっと見つめる。女だろうが男だろうが私は、いや俺はマルクだ。必ずマルクとして生きてみせる。
傷を指で撫でた後に、ぐっと拳を握りしめた。




