第4話: 大事な、名前
顔面を支配する不愉快な粘液を袖でこすりとる。はしたないとは思うが、そうも言っていられない。
起こった出来事をどこか遠いもののようになぞり、手を握っては解放し、ぼーっとした頭を動かして……はっと、後頭部に手を伸ばす。指先にこびりつくのは粘性のある液体、しかしそれはスライムのものではなく、まぎれもなくサヨ由来のものだった。
「はー……。止血……って、頭はどうすれば……」
くらくらとする頭で周囲を見渡す。未だにスライムの遺骸は蠢いており、見たくないものを見たと焦点を彷徨わせた。
命を、奪った。
他でもない自らの手で。しかしそこに嫌悪感も、達成感すらなく、自分でもこんなに冷徹だったかと眼を逸らす。
逸らした先、そこにはあるはずのないものがそそり立っていた。
「……あ?」
黒い六角柱の石の柱。中央にはさも当然かのように光る板が埋まっており、無理解が喉を突く。
先ほどまではなかった、はずだ。こんなもの見落とすはずがないし、いくらスライムに目を奪われていたとしても言い訳にはならない。となると――。
「クリア報酬、って感じですかぁ。傲慢なことで……」
ゆるゆると立ち上がり、よろめきつつもなんとか身体を支える。膝が笑っている足にも鈍い痛みを感じ、そういえば裸足だったな、と遅れて不可解な疼痛の原因を紐とく。労わりながらそれに近づいて、さて一体何が書かれているのかと……。
「……あれ?」
記されていたのは、たった二行の不可解な短い文字列。遅れて来る意味の解明、しかし認識が滑る。
「HP、15/100」
今一度口に出して、頭の中に放り、噛み砕く。
「HP、4/26……」
HPは多分、ゲームでありがちな体力というやつだろう。サヨがぼろぼろなのは見ての通りだし、理解はできる。じゃあ、この二行目の体力表示は、一体何を。サヨと同じくらい消耗している、これは、誰だ。
繋がらない思考、紡げない言葉に解釈が空転して、ああきっと出血のせいだときりきり痛む頭に顔を歪ませ……一行目のHPが、14にリアルタイムで下降するのを見届け、目を見張らせて……蹲る。
「がっ……は……ぅ」
身体の様子がおかしい。いや、おかしいのは当然だ。これまで感じたことのないような苦痛を一度に浴びせられ、違う、身体の中だ。サヨの、自分の中がめちゃくちゃにされているような、きっと生涯で一度も感じられない、感じるべきではない、だけどこれを、サヨは知っている。
「……飲み込んだ、スライ……ム……」
霞む視界、飽和する思考でそう結論付ける。傲慢にも人の身体を蹂躙して、身体を、内臓を、胃を突き破って、これまで意識もしていなかった組織が捲られ、引きちぎられ、壊されて、助からない。
助からない。
助からない、から。
「……っ」
まともに動いてくれない腕を伸ばし、限界を超えて動いてくれた指がそれを掴む。唯一の希望。
私を、私が、私として終わらせてくれる。喉を逆流する液体を押しとどめられなくて、見たこともない赤い液体が吹き出し、それを汚してしまったのがなんだか申し訳なくて。
ふと、一人だけの友人の顔が浮かんだ。
あの子は、罰するだろうか。またこんな決断を下したサヨを、いつもみたいにくしゃくしゃな顔をして、叱ってくれるだろうか。
ぽつりと口の中だけで彼女の名前を呟いて、大事なものを抱えるように口を強く噤む。
「……じゃあ、ね。今度は……」
今度は、なんだろう。続く言葉は思いつかなくて、それより前に口内に満ちる赤い体液に押しとどめられる。
お腹の中に感じる不埒な存在に向けて、逆手でぎゅっと持ち直し、優しく愛おしく、指に力を込める。
ぱぁん、と、すこし気の抜けた音を残して、サヨの意識は暗転する。
痛みも、苦悩も、過去も。
希望も、喜びも、明日を願ってはにかんだ大事なあの子の顔だって。
全てを置き去りにして、堕ちていく。




