第19話: 街
意を決して開いた『外界』への扉、その先には――意外にも、夥しい数の錆びたパイプに埋め尽くされた灰色のコンクリートのような壁だけが広がっていた。
予想もしていなかった光景にしばらく目を瞬かせ、扉の先へ一歩踏み込む。きょろきょろと周りを確認してみると、眼前の壁は横一直線にずっと続いていて、蜘蛛の巣のように張り巡らされたパイプがところどころで奇怪な機械に繋がったり途切れたりしており、時折裂けたパイプの口から謎のスパークやら煙やらが発生している。
壁と扉との距離は2mもなく、上を見てみるとここを作り出した壁はかなり高い建物のもののようで、しかし張り巡らされたパイプたちにより日が差し込む隙間がないのか、全体的に薄暗く陰鬱な空気が漂っていた。つまり――。
「……裏路地?」
これまでとは打って変わってやたらと現代的な光景に面食らう。てっきり元居た場所の状況からして森の中に放り出されるものかと思っていたが。少なくとも第二のスタート地点としては好都合だろう、とあからさまに歪んだ空間は見ないふりをして、
「『枢機卿』……字面からして、宗教関係っぽいけど」
スマホを取り出しつつ、あの老人が示したキーワードを追うべく、手がかりが得られそうな場所を考える。自らをそう名乗るファンキーなお方でもない限り、教会とか聖地とかそういう場所に居そうだ。
街中だと推測される現在地でも相変わらず圏外を示す表示に苦い顔をしつつ、メモ帳アプリを起動して適当な方針を立てる。
宗教、そしてお偉いさんがいる。となるとある程度文化に根差した信仰である可能性が高く、必然的に目を引くシンボルと建築物でもってその威光をひけらかしているだろう。とりあえず主要な通路に出て散策してみて、特徴的なランドマークを巡るべきだ。今回は位置を軽く探って、街の構造を適当に把握する程度でいいだろう。次回万全に準備をして本格的に情報を探ろう。
「よし……、と」
そうと決まれば、とスマホを仕舞い、いざ行かん――と大いなる一歩を踏み出そうとしたところで、扉を開けっぱなしにしていたことに気づいて無理やり身体を留める。もしこんな路地裏を通る輩が侵入してしまえばたまったものでもないし、とドアノブに手をかけ、適当に勢いを付けて勝手に閉まるよう力を込めた。
なすすべなく元の位置に戻される扉が、意図せず塞いでいた路地裏の向こうの景色をつまびらかにする。
「――?」
満足して元の方向に向き直り、先に進もうとした足をちょっとした違和感が引っ張り、首だけで振り返ってもう一度確認する。
扉を閉めたことで見えるようになった反対側の景観には何もおかしいところはなく、ひしめくパイプや隅にあるゴミ箱に無造作に放り込まれた棒のようなごみたち、鼻をつく錆臭いにおい、そしてアスファルトっぽい地面に転がっている首と四肢のない死体たち――。
「気のせい……か」
なんら異常のない様相に首を捻り、今度こそ陰気臭い路地裏から脱出すべく歩きはじめる。そこで先ほどちらと確認したスマホの時刻を思い出す。現在時刻は15時半ば、時差を考えれば恐らく日が出ているであろう外の世界の対策としてフードを被ろうと腕を後ろに伸ばす。アルビノであることをある程度隠さねばならないし、ここはまだマシだが開けた場所なら――。
そして肘から先の部分をどこかに落としてしまったサヨの左腕が、簡単なタスクすら達成できず宙を切る。
「……?」
ぽたぽたと赤い雫を落とす腕を不思議そうに眺め、改めて両腕を見てみるとどちらも半ばからさっぱりと切り落とされてしまっている。なるほどこれならフードを被るのは無理そうだ。だとすれば多少活動時間は短くなるが、日に焼かれるのを覚悟で外に出るしかないだろう。
綺麗で歪んだ断面の腕から絶え間なく血液が流れてサヨの靴を汚し、これは不便だ、何か止める術はないかと周りをなんとなく眺め、
――死ぬ。
「――ッ!?」
突如脳裏を過ぎった穏やかでない直感、それに疑念を抱く間もなく脊髄で応答して身体を後ろに仰け反らせる。腹筋と足腰が悲鳴を上げ、倒した頭の鼻先を優しい風が撫でた。急激な身体の動きに耐えかねて尻もちをついてしまい、たらたらと唇の上を濡らす血液は一体どこから来たのか疑問に思い――。
違う、切られている。斬られた。くるくると宙を舞っている肉片には見覚えがあり、それは間違いなくサヨの鼻頭だったもので、つまり。
「攻撃っ……!」
たどり着いた結論を口に出し、それを理性が否定する。ちぐはぐな思考、繋がらない論理は当てにならない。厚かましくもサヨの鼻を削ぎ、恐らく両腕すらも切って落とした何者かが居る、それは間違いない。
頼りにならない思考を置き去りにして本能だけで動き出す。
痛みがない。違和感がない。ともすればサヨの身体は生まれたときからこの形だったような気がしてきて、むしろ身体が五体満足だなんて想像をするだけで現実味がなく私はずっとこのまま過ごしてきて何不自由なく生きてあの『試練』だってこれでずっと走れ走れ逃げろ普通な異常な考えを弾いて無心で走れ――。
「おかし、い……っ、なにが、なんでっ……!」
ちかちかと明滅する視界、酸素不足にあえぐ心肺を抑え込んで一心不乱に走る、走る。未だにこれを攻撃だと確信できていない自分がなぜか気持ち悪く、上がってくる胃酸が呼吸の邪魔をして鬱陶しい。とにかく今は逃れることだけを考えて、走って、這って――這う?
いつの間にか地面が近い。もぞもぞと芋虫のようにしか動けない自分を疑問に思うことに疑問が、
「あっ……あぁあぁぁっぁぁあああ!!」
だめだ駄目だダメだ、これは駄目だ。命を、人間を、サヨを冒涜している。
後方に向けた視界が捉えてしまった、何の痛痒すらなくふとももから先が別離してしまった現実。どこから来たのか分からない嫌悪感が涙となってとめどなく流れ、涙と鼻水と吐瀉物がサヨの顔をぐしゃぐしゃにしていき……歪む視界が目前の何かを捉える。
靴だ。健康で、不完全な脚だ。サヨのものではないそれはきっとこの状況を作り出した張本人のもので、
「ぁ、ぐぃ……ぅ」
突如視界がぐるりと動き、引っ張られる頭皮が誰かに髪を掴まれ持ち上げられたことを理解させる。
無理やり前を向かされた視野には誰かの顔が映っている。涙でぼやけて輪郭すらあやふやで、それがかろうじて男の顔であろうことだけが分かった。
「――――――――――――」
目の前の顔から何事かを囁かれる。あいかわらず知らない言語で話されたそれは意味がくみ取れず、しかし慙愧に震えた本心から申し訳なさそうな声音だった。
「な……ん、え」
届かないと知りながら、疑問を投げかける。なんでこんなことを。なんで、こんなことに。
サヨの問いを真っ向から受け止め、それでも動かない男はサヨの瞳をじっと見つめている。値踏みするような視線を感じて、なぜ攻撃してこないのかとさらなる疑問に押しつぶされて、
「……――――」
「……え?」
再度呟かれた言葉、そこには強い敵意が滲んでいた。静かに罵倒するような鋭い声は確かに先ほどと同じもので、しかし豹変しすぎていて一瞬同一人物だと理解できなかった。
突如、掴まれていた髪が解放される。思いっきり地面に近づいていく視界、続いて来る衝撃が脳の奥底を響かせ、打ち付けられた額がじくじくと痛む。そのままサヨの頭はサヨの意思に反して転がっていき、違う。ずっとそうだったように衝撃のままころころと――。
流転する視界が最後に捉えたのは、首から先がなくなって鮮血を垂れ流しながらぴくぴくと動く、サヨのものだった身体だった。
*
初めて感じた死の匂いは、鮮烈で、無臭だった。
「ぅ……ぶ、おぇ……」
ちかちかと輝くタブレットの光を目にして、またあの洞穴に舞い戻ってきたことを理解する。脳が情報を処理しようとするなり足腰に力が入らなくなり、ぺたんと座り込んで嘔吐感に身を任せて胃の中身をぶちまけた。
――死んだ。死んだ死んだ死んだ、決意を踏みにじられて、尊厳をそぎ落とされて、死んだ。
自分の身体が自分のものじゃないような感覚。ちぐはぐで、全部が覚束ない。肩から指の先端までぴりぴりと痺れるような錯覚が襲い、先ほどまで存在しなかった血肉が確かに存在していることがどうしようもなく気持ち悪くて、えずき、せり上がる胃酸が喉の奥を焼いた。
「は――はっ、は」
息がうまくできない。視線を定められない。歯の根がかみ合わず、かちかちと奥歯が鳴る。どうしようもなく全身に襲い掛かる死の実感は確かに重みを増していて、正常になった脳があの全てを否定して、拒絶する。
あれは、なんだ。
腕がなくなった。鼻を切り飛ばされた。脚を剪断され、首をねじ切られた。
それを当然のごとく許容していた。痛みも不自由も違和すらなく、受け入れ、適応していた。
あの瞬間、サヨは人間ではなくなっていた。
「――」
ぺしゃぺしゃと口から零れ落ちる胃液をそのままにして、『デスペナルティ緩和を緩和』の効果をゆっくり実感する。あの時起きたこと全てが記憶に新しく、風化しない。死の鎌がいまだサヨの首元にかけられているような気がして、あふれ出る涙が頬を伝って脂汗が背中をじっとりと濡らす。平静は、訪れない。
ともすれば、今すぐ四肢を砕いて切り落とせばさっきのような平静が得られるのではないかと考え、
「ぁぁあああ! 違う、違う違う、そうじゃないだろ、サヨ……!」
自分に言い聞かせるように叫び、口元を拭う。呑まれちゃだめだ。あの死の実感を、安寧を受け入れちゃだめだ。
「考えろ……考えなきゃダメだ」
口に出してみるが、思考が滑る。何が起こった、という問いを立てても、答えに向かう前に記憶が割り込んでくる。
くるくると宙を舞う肉片。落ちていく視界。ぴくぴくと動く、首のないサヨの身体。
「――っ、やめ、考え、考えて……!」
嘔吐感が返ってきて、堪える。堪えて、歯を食いしばって、それでも滲み出てくる涙を乱暴に袖で拭い、強引に思考の向きを変える。
感情を処理する余裕はない。後でいい、全部後でいい。今は事実だけを並べる。
何が起こった。殺された。それは確かだ。
もう一度。何が起こった。……あの最後に現れた男に、殺された。
反芻するたびに映像が滑り込んでくるのを、頬の内を噛んで抑え込み、思考の言葉で上書きする。強引で姑息な手段だが、滅茶苦茶な自傷への渇望に身を任せるよりかはずっとましだ。死への折り合いは、あとで付ける。
思考の足場は酷く不安定で、今にも崩れそうで、それでも立っていなければ。
「ふぅー…………」
あの男は、刃物を持っていなかった。涙でぐちゃぐちゃな視界だったため確証は持てないが、人体を切り刻めるようなものだとどうしても目に入るような獲物が必要になるのではないか。複数犯?
なぜ殺された。あの男は一度謝るようなそぶりを見せ、次の瞬間静かに激昂して首を落としてきた。感情の落差が激しい。最後にじっくりとこちらを確認してきた様子から、アルビノへの不快感からの激情だったのだろうか。路地裏は暗く、サヨの特徴を見落としていた可能性は高い。
首を落とされた理由は分かった。であれば初撃の理由は? 少なくとも忌避すべきアルビノではない、一般人とおぼしきサヨを襲った理由は。
「……口封じ……?」
思い出した。思えば最初からおかしかった。なぜサヨは扉の向こうの無残な死体を、ゴミ箱に入れられた無数の腕を、転がる首を認識できなかったのか。
フラッシュバックするおぞましい光景に再度嘔吐しそうになるが、なんとか堪える。四肢をもがれ、首を落とされた死体。間違いなく下手人はあの男だ。だとすれば殺人を見咎めたサヨを念のため殺しておくのも、理解は、できる。
つまり、なんだ。
部屋に沸いた蚊のように、自分は、ひどく身勝手で横暴な理由で殺されたのか。
「――はーっ……。大丈夫……。運が悪かっただけ……」
かっとなり怒りに赤くなる視界をなんとか鎮め、言い訳めいた言葉で慰める。あれに怒ってもどうしようもない。姿を視認する間もなく両腕を切り落とされたのだ、復讐のしようもないだろう。根本から、生命として格が違う。
大丈夫だ。
大丈夫……なわけがない。
それでも、言い聞かせなければならない。
並べる論理の隙間から死の瞬間が顔をのぞかせ、なんとか蓋をして封じて、今だけは無視をする。
「……それよりも」
何といってもあの無理解が悪い。常識を書き換えるような、あの不可思議な場の雰囲気だ。死体も、腕を切り落とされたこともすっと理解して受け入れてしまう、あれが。
結局何だったのだろう。男による策略か、あの路地裏に蔓延する何かか、それとも迷宮のように世界にはたらく力場か。
なんとなく分かっていることは、もし身体の一部を切り落とされたらそれを視界に収めることでようやく異変をぼんやり理解できる、ということくらいだ。それだけ分かってもどうしようもない。
まだ何かある気が、と悶々とする思考を一旦振り払う。チョーカーを撫でて平静を保ちつつ、嗚咽がもう来ないことを確認してほっとした。冷静だ。サヨの死への恐怖は、鈍ってはいない。
「――っ、そうだ、ログ……!」
冷えた頭が、現実逃避気味の思考を現実的な解決策の前へ引きずる。サヨはあそこで死んで、ここに戻った。となれば『外界』とやらもあの迷宮のようにここと繋がっている可能性がある。
であれば、少なくともあの時起きたことや、男のことについてもログのコンソールに記されているのではないか。
ぱっと立ち上がり、タブレットの前に駆け寄って勢いよく覗き込む。目論見通り大量に更新されている文字列を見て不敵に笑い、素早く目を通した。
「クリア……『外界』へアクセス……」
新たな場所だからか情報の粒度が細かい。目が滑る固有名詞の羅列やよくわからない文言をより分けて、望む記述をひたすらに探していく。
「『裏路地』へ進入……まんまじゃん」
ここで結局何をされたのか。今度はじっくりと文章を吟味し、起きた事象をつぶさに確認する。
しかし本当に知りたいことは特段書かれていない、ように見える。肉体を切り落とされたことは記されていても、その手段や周囲の環境変化は伏せられたままだ。どちらかというと世界を俯瞰する万能の目、というよりはサヨというフィルターを通して処理した事象の列挙なのだろうか。だとすればこのログへの信頼も考え直さねばならない気がする。
思ったより進捗のない情報精査にやきもきしつつ、分かることが1つでも増えれば僥倖だと思い直してログを読み続けて、
「……『暁の節制』と遭遇」
終盤も終盤に記されていた、目を引く名詞。そのセンスに一言申したい気持ちはあるが、状況からしてあの男のことで間違いないだろう。
「一旦は、この名前を避ければいいかな」
未知の襲撃者、相対すべきでない対象の手掛かりが手に入っただけでも今後の身の振り方に役立つ。疑問は尽きないし思ったよりも解決に向かわなかったが、ひとまずここで得られる情報は打ち止めだろう。
知らず知らずのうちに力を込めていた手をぱっと石柱から離し、ベッドへ向かう。そのまま身体を柔らかいマットレスに預けて、色々なことがありすぎて強張った全身を休ませた。
「ノルフィス国、ね」
思わず呟いたのは、ログの初めの方に書かれていて、ノイズになるからと弾いた固有名詞だ。『ノルフィス国レイ領4番街に転送』。どれもこれも聞いたことがない。
これまでこの身で体験してきた様々な超常的な現象。聞いたことのない国名に、理解できない言語。ここまで来れば察しが悪いサヨでも――いや、ちゃんと気づいていて、逃避するために目を背けていたサヨでも、納得するしかない。
「やっぱ異世界だよなぁ……」
諦めるように小さく慟哭し、克明な死の影響に加えて本当に帰れるのかと不安に押しつぶされて、その日は寝ることができなかった。




