第12話: 怪物
「――♪」
有名なわらべ歌を口ずさみながら、迷路の複雑な通路を進んでいく。
もしあの怪物が音で寄ってくるようなら、愚策も愚策といったところだろう。ただ、歌っているだけでは近寄ってこないのではないかというぼんやりとした確信があった。
そもそも、初遭遇の時からして妙だった。サヨはあのとき特段大きな音を出していたわけではない。徘徊していたにしても、かなり遠くから私を捉えて一直線に近づいてきた。この複雑な迷路を、一体どうやって?
2回目の探索時、これも引っかかる。複数回の発砲がよもやあの怪物に聞こえていなかったわけではあるまい。とんでもなく遠くにいたんだ、と切り捨てることはできる。ただこれも初遭遇の鋭敏な反応を考えればおかしい、はずだ。
つまり、あいつは音ではない何かでこちらを把握している可能性がある。
「――♪」
これで寄ってこないならば、最低限音の線はなくなる、と思う。だとすれば気兼ねなくスマートをぶっ放せるし、探索も捗るだろう。
びくびく怯えながら探索するくらいなら、数回の死を糧に確かな情報を得るべきだ。
歌いながら歩き始めて、既に一時間が経過した。
枯れ始め、ヒューヒューと鳴る喉が水分を求める。どうにか水筒を作る手段を模索するべきだっただろうか。ルームウェアは寝るときにしか着ないし、あれを破いてなんとか作れないものだろうか。今まで死んだらすぐ戻れていたし必要性を感じなかったが、柔軟な作戦が必要になることを見越してこういう準備もするべきかもしれない。
「っ、――♪」
脱水に思考を奪われ、思わず閉じてしまった口を制御し直して歌を続ける。そろそろわらべ歌のストックが尽きてしまう。こんなことならもっと歌に、音楽に興味を持つべきだった。この後悔は的外れかもしれないが、それでも現状への不満以上の感情があることに気づいて首を傾げる。
なぜ私は音楽に興味がなかったのだろう。
頭の隅に疑問を追いやりながら、知りうる最後のわらべ歌を歌い終える。ふう、と息をついて生唾を飲み込み、さてどうしようかと腰に手を当てる。歌はもう喉に負担をかけたくないし止めておく。
スマートを連射しながら進んでもいいが、あの化物と遭遇したり、他の危険そうな生命体と出会ったりする危険性に備えて万全の状態を維持しておきたい。移動でばたばたと音を立ててもいいが、これ以上疲労を蓄積させるのも好ましくないだろう。
考え込んでいると、ふと新たな疑問――違和感が脳裏に過ぎった。
「……私、何回曲がったっけ」
歌に気を取られて脳内マッピングを怠っていた。今回は死ぬことを前提とした探索であるためそれ自体に問題はほぼないが、にしたって曲がり角や分岐の数が少なかった気がする。
そういえば行き止まりにも遭遇しなかったし、資源の入った箱だって見かけていない。ともすれば振り返ってまっすぐ戻るだけで帰れるような、と後ろを見て、目を見張らせる。
「……分かれ道」
直前までまっすぐだったはずの帰路、しかし眼前にあるのは十字路だった。左右に別れた道と、前面に続く道。突き当りには壁が見えて、それが左に伸びているのがわかる。曲がり角だ。
さすがにさっきまで進んでいた道を忘れるほど歌に熱中していたわけでもないし、何よりこれまでにない分岐の仕方だ。となれば、
「リアルタイムで変化する迷路……」
それは最早迷路なのだろうか。これまでのことを思えば、誘拐犯はこちらの動向を確認できる手段を持っていてもおかしくはない。サヨの反応を伺って通路を変化させてしまえば、あるかもわからない出口にたどり着かせないように操作することだって可能なはず、と最悪のパターンを想像する。
だが、2回目の探索を思えば一貫しない態度だ。あのときはちゃんと戻れたし、探索途中で通路が変化していた記憶もない。
矛盾にどうすべきか立ち尽くしていると、十字路の向こう側、前面から音がした。こつこつと、床を一定のペースで打つ音。
「――っ」
繋がらない思考を捨て、瞬時にスマートを装備する。別にあの化物に殺されること自体は半ば諦めて受け入れているが、抵抗しないということでもない。一発でも反撃を入れて、そもそも銃撃が効果的なのか、撃ち込む隙があるのかなど確かめるべきことを念入りに潰さねば。
手汗で滑る手をなんとか誤魔化してスマートを構え、その姿を――と待ち受ける中、またも違和感がサヨを襲う。
この音は、あいつじゃない。
軽い存在による硬質な足音。しかし床だけを踏みしめるそれは、あんなふざけた存在なんかじゃなく、もっと地に足をつけた――。
疑念と焦燥に囚われる頭の中、冷静に情報を処理する視野が、曲がり角から現れた存在を捉え、絶句する。
「――――」
人だ。
怪物でも異形でもなんでもない、この場に似つかわしくない存在だ。
サヨより一回り大きい身長に、女性的な肉付きを残したまますらりと伸びた手足。纏う服装はどこか民族的で、纏われた黒いクロークの下の身体はひらひらしたカラフルなワンピースに包まれて、窮屈そうに大きな胸が仕舞われていた。腰ほどまで伸びた金色の髪を後ろでひとまとめにしていて、身に着けているベレー帽のような黒い帽子がアクセントとなりいっそう目を惹く。
身体の大きさに反して童顔な顔つきと、くりくりした可愛らしい梟のような橙色の目がこちらを認識して、驚愕に歪められていた。
人らしい感情。――対話ができる、存在だ。
「あ、あのっ」
慌ててスマートを下ろし、声を掛けた。独り言以外では久々の、ちゃんと発した声は頼りなく震えていて舌が引き攣ってしまう。
期待と警戒をないまぜにしたあやふやな発声に、目の前の女性はびくっと身体を跳ねさせ、手に持った30cmほどの木の棒に力を込めるばかりで返答はない。
「あっ、銃――だ、大丈夫です。ほら、こうして……撃ちません。だから、会話を」
女性の反応にはっとしてしゃがみ、前方に手を向けながらスマートを手放して床に滑らせる。くるくると回転した銃身が離れた壁を叩いて、手の届かない場所でぴたりと止まった。これで目に見える脅威は排除できたはずだ。
「わ、私……いつの間にかここにいて。それで、お姉さんもかなって。じゃなくても、何か分かることとか……」
自然と目線を俯かせ、必死に言葉を紡ぐ。ここにきて初めて出会った人間だ。サヨ以上に何か知っているかもしれないし、そうじゃなくとも会話が成立すれば――と矢継ぎ早に考えたところで、反応が一切ないことを訝しんで顔を上げる。
警戒は当然だ、ならちゃんとその種を潰して、久しぶりの理性的な対話を――その考えは、女性に浮かぶ複雑な表情に打ち砕かれる。
驚愕、それは分かる。サヨだって彼女に負けず劣らず感じている。猜疑と怯え、これも分かる。いきなり銃を向けられたのだ、仕方がない。サヨのミスだ。
だけどその目に浮かんでいる、強い侮蔑と敵愾心は、理解できない。いや、理解したくないのだ。
サヨにとっては向けられ慣れた、心の奥底に根ざした差別という楔からくる感情。
その理由にようやくたどり着き、奥歯に力を込めて悲痛を噛み殺す。
「分かって、分かってます。きっと、何か。でも今はそんな状況じゃ――あ、あなただって、ここにいるってことは」
「~~~~~!」
沈黙を貫いていた女性がようやく口を開いて、だが怒号とも呼べるそれの意味は掴めない。少なくとも友好的でない叫びにあっけに取られて、反応が遅れた。
目の前に閃いたのは、大きな炎の塊だ。
「は」
起こった超常的な事象に反応が遅れ、本能に突き動かされるまま身体を横にねじり、無理やりな回避の代償として床にもんどりを打つ。猛然と宙を突き進む炎が通路の空気を切り裂きながら焼け焦がし、急な動きに付いてこられなかった左手を掠めた。
一瞬触れただけの灼熱は、世界の法則を無視してサヨの骨身の奥まで被害をもたらす。
「――――っ、つ゛うぅ……!」
気の遠くなる激痛の後、何とか持ち直した視界で被害を確認する。手が動かない。少し力を入れただけで燃えるように痛む左手、そこにあるべきものが感じられない。
悲鳴を堪えて目を凝らすと、感覚を削がれた薬指と小指が真っ黒に焦げてしまっていた。
「な……ん、で」
左手を庇いながらきっと目の前を睨む。サヨの神経を文字通り焼き尽くした炎、それを出現させたであろう女性はこちらに目を向けたまま、どこか慌てた様子でポケットを探っていた。それは苦しむサヨを案じたものではなく、もっと利己的な、猛獣を目前にした人間のような反応で――。
何かを取り出した女性、それに思わず後ずさってしまう。また有無を言わさぬ攻撃が、と身を守るサヨから最後まで視線を外さないまま、女性は握った何かを振りかぶって、地面に思いっきり叩きつけた。
ぱふ、と気の抜けた音が響いた。
瞬間発生した巨大な白煙が通路を一気に埋めつくし、とっさに腕で目を覆う。呼吸で入り込んでくる粉塵に咽ながら、身体を通路の隅に寄せて煙幕が収まるのを祈りながら待った。
数十秒後、ようやく晴れた煙。しかしその先にあるはずの女性はなく、忽然と姿を消してしまっていた。
一連の流れに唖然としてへたり込み、しばらく呆けてしまう。
足音はしなかった。どうやってここから逃げたんだろう、という考えはすぐさま悔恨に塗りつぶされる。
何が悪かったんだろう。銃を向けたのは、まぎれもない失態だ。だからこそ必死に武装解除したのだが、伝わらなかったのだろうか。言葉を並べ立てて、誠意を込めて……。
「……言語?」
最後に耳朶を打った女性の言葉は、これまで聞いたことのないものだった。冷静になって考えれば顔は異国人然としていたし、当然日本語は通じていなかっただろう。となるとサヨはよくわからない言葉をまくしたてる奇人のように映っていたのか。だとしてもあんな短慮な攻撃は――。
未だずきずきと痛む左腕。神経まで焼き尽くしたあの炎の攻撃。
「明らかに、おかしい」
ほんの一瞬触れただけだ。線香が思ったよりも燃えてしまったときに指で押さえて消す派のサヨには分かる。炎というものは、瞬間的な接触なら熱さすら感じないはずだ。
あの巨大な炎を出現させるだけならまだよかった。手品でもなんでも、炎を急に出す手段なんていくらでもある。
だけどこれは現実的でない。物理的に有りえない。火傷とは違う場所からくる脳の疼きに、頭を抱える。
あれではまるで、魔法のような――。
これまで考えもしなかった可能性。もし思いついても、子どもの妄想だと切り捨てられるような絶望的な現状への解答。
「っ、だとしても」
無事な右手でチョーカーを引っ張りながら、強く否定する。推測が正しければ、なおさらあの女性の反応が噛み合わない。自らと、普通と異なる存在へ向ける恐れと畏れ。サヨがその身に宿した、生まれながらにして纏わりつく呪縛。
あれは、サヨではなく、アルビノに対する恐怖だ。それも並々ならぬ、排斥を強要する畏怖だ。
なんとなく、彼女の表情にちょっとした共感が芽生え、首をかしげる。あれはサヨもきっと浮かべたことがあるもので、それは――。
サヨの疑問に答えるように後ろから響いたそれは、聞き覚えのある不快な足音だ。あの女性のものでもなく、およそ人が発せるものでもない、歪でゆがんだ死神の足音。
振り返ると、すぐそばに見覚えのある老人の顔が迫っていた。わざわざ待っていたのだろうか。だとすればずっと律儀で、だけど初めて近くで見たそれは、瞼がしっかりと縫いつけられていて、底知れぬ嫌悪感と忌避感を覚えてしまう。
それに諦めからくる不格好な笑みを浮かべて、来る終わりに眼を閉じて、導いた結論に嘆息する。
「私、あんたと同じ怪物なんだね」
相変わらず意地汚い真似をする場所だ。こんな形で、あの女性と決して分かり合えない理由を突き付けるとは。
こんな場所に一人で佇む、真っ白な姿で意味の分からないことをまくしたてる存在。なるほど、逆の立場なら理解はできる。
「……大丈夫」
私は、帰れる。帰らなきゃいけない。
大事なあの子との、███との約束を果たすために。
「――?」
急に生まれた思考の空白、それを紐解く間もなく、風を切って何かがサヨに、サヨの頭に近づいてくるのが分かった。
これまでにないほど優しい死が、痛みもなくサヨの思考を、試行を、底知れぬ暗闇へと導いてくれた。




