第49話 努力したんだぜⅠ
走る馬車の荷台に転がされることが、ここまで不快なものだとは思わなかった。車輪が道の石を拾うたびに振動が歯の根まで伝わってくる。頭を打ち付けないよう首に力を入れ続けてるせいで、せっかく治してもらった体がもう文句を言い始めていた。尻を痛めつけるあの拷問のような座席ですら今は恋しい。
「ニクラスのやつ、また面倒を起こしやがって。後始末はいつも俺らだ」
「ったくよぉ。母さんも親父もあいつに甘すぎんだよなぁ」
斜め向かいの席に並んで腰を下ろしている兄弟は、たまに義務的な監視の視線を送ってくるだけ。転がされた俺になんて興味もなさそうにさっきから不満を垂れ合っている。こちらとしては都合がいい。こいつらはすでに致命的なミスを犯していることに気付いてもいない。俺を処刑場へ運ぶために、よりにもよって俺が物色済みの馬車を使うとは。
「なあ、オヴィンニクの縄張りってどのあたりだっけ?」
「さあ。森の前で捨てりゃいいだろ。あとは勝手に食われる。あ~、めんどくせえ」
食料、武器、金目のものは村に着いたときに運び出した。残したのは不要と判断したガラクタだけ。そして、いつだって物は使いよう。無造作に押し込まれたおかげで俺の背後は兄弟から死角になっている。縛られた手で目当てのものを探りあてた。陶器のジョッキ。両手で包み、静かに力を込めてタイミングを図る。
「それよりあのサキュバス、本当に火あぶりにしちまうのか? 見ただろあの顔と体、もったいねえな。あんな極上、この辺じゃ一生拝めねえぞ」
「ははは。なんだよ飼いたいのか? 見た目はあれでも所詮は魔族――おっと!」
車輪がまた石を噛んだ。大きな音を立てて車体が跳ねる。その振動と音に紛れ、ジョッキに体重をかけた。くぐもった破砕音にふたりは気づいていない。手のひらに陶器の破片が食い込み、温かな血が伝う。いちばん鋭利な欠片を指先で選んでロープへ当てた。ほらな、物は使いよう。血は破片を滑らせる潤滑剤にちょうどいい。
「あいつら、俺たちが戻るまでに壊さねえだろうな」
「俺はいいぜ、少しくらい壊れてても。うるさいよりマシだろ」
「わかってねぇな〜。ああいうのは泣きわめいて嫌がるから楽しいんだよ」
下品な想像で盛り上がる兄弟を横目に、指先を動かし続ける。振動は味方になり、動きを怪しまれてはいない。擦るたびに繊維が一本ずつ弾けていく。やがて血を吸って重くなったロープが手首を滑り落ちた。拘束から解放されたことを悟られないよう体勢はそのままに、破片を逆手に持ち直す。手のひらの傷は思ったより深い。でも感覚はしっかり生きている。獲物はふたり。距離は一歩。なかなかにスリリングだ。期待に喉が乾き、胸が高鳴る。
「……上等な女がはじめてだからって、そうはしゃぐなよ。聞かされる身にもなってくれ、恥ずかしくてしょうがねえ」
「ああ……? いま何て言った、このゴミ」
近いほうに座ってるやつが苛立ちを隠しもせずに睨みつけてくる。単純でいい反応だ。もう少し。
「あんな寂れた村じゃ、ヤる相手を探すのも一苦労なんだろうな。気の毒に、そこは同情する。初体験の相手は裏庭に繋がれてるヤギか? それともあのブヨブヨのママが手ほどきしてくれた? 女っていうかブタ寄りだもんな。気兼ねなくやれたろ?」
俺は母さんが好きだ。いくつになってもあの人には敵わない。この世で数少ない明確に愛する存在だと断言できる。もし俺が誰かに、母さんを侮辱するこんなセリフを吐かれたら? そいつは間違いなく大きな代償を払うことになる。五感や五体を引き換えに、生き続けるかぎり払ってもらうだろう。それくらいには母親の存在は大きい。そしてこいつらは間違いなく俺と同じ、母親を愛する息子たちだ。
「てめえこの……!!」
でかい釣り針に引っかかった獲物が、怒りのままに掴みかかってくる。瞬時に右手を男の喉笛へ抉りこませた。陶器は充分に鋭利。だけど刃物ほど薄くない。だから思いきり叩き込む。喉の肉を強引に割り進み、骨と腱の抵抗を感じながら力で沈める。
「ガッ……!?」
うまいこと頸動脈を捉え、内圧に耐えかねた鮮血が間欠泉のように噴き出した。何が起きたか理解できていないだろうし、理解できるころにはもう手遅れだ。男は両手で喉を押さえながら、俺の上でただ瞬きばかりを繰り返す。温かい血が降りそそぐ。
「あ……っ、が……」
男の腰から剣を抜いた。片足を腹に当てて、のしかかってくる重みを蹴り飛ばす。起き上がると同時に腕が動き、奥に座っていたもう一人の胸を貫いた。考えていた手順を、この身体はほとんど反射のような速度でこなす。叫び声を上げる暇もなく兄弟は揃って死んだ。
パチパチときらめく視界。心地の良い殺しの余韻。なじみ深い血の臭いを肺いっぱいに吸い込み、深呼吸ひとつで次の行動に移るため頭を切り替える。




