第50話 努力したんだぜⅡ
「まずはこのオンボロだな……」
ここで静かに荷台から転がり降りて、そのまま徒歩で村へ戻ることもできる。どう考えても時間がかかりすぎ、現実的じゃない。御者を始末して馬車を奪い返すしかねえか。幸い、荷台で起きたちょっとした騒ぎには気付かれていない。兄弟の誰かを装って合図を出せば素直に手綱を引くはずだ。足場を確保するため兄弟の死体を隅へと蹴り転がす。血で滑る床を酒臭い毛布で適当に覆う。誘い込むにしても飛びかかるにしても、まあこれでなんとかなる。兄弟は足を踏み鳴らして合図を出していた。さっそくそれを真似ようと片足を上げる。
「待て! 止まれ! 止めるんだ!」
だけど合図を出す前に御者のひとりが叫んで、続いて急停止がかかった。馬がいななき、車体が激しく揺れる。バランスを崩し俺も思いきり尻もちをついた。
「おい、いまの聞こえたか? あいつらだ。あのケダモノ共が近くにいやがる」
「まだ森の入り口にも着いてねえぞ? 聞き間違いじゃねえのか?」
「くそっ、いいからあいつを捨てて引き返すぞ! さっさとしろ! 餌を置いてきゃ、その隙に逃げられる!」
「わかったよ……。怒鳴るなって」
ふたりが御者台から降りた。幌が揺れ、足音がばたばたと隣を通り過ぎる。剣を握り、いつでも餌に飛びかかれる蜘蛛のように身をかがめて待ち伏せる。向こうからきてくれるなら手間が省けてありがたい。正面に人が立つ気配。息遣いさえ聞きとれる距離。幌がめくられる――足に力を込め、踏み出す準備を整える。
「ギャッ」
短い悲鳴が上がり、めくられかけていた幌が下りる。それきりなにも聞こえなくなった。しばらく様子を窺っていると馬が乱れたステップを踏みはじめる。苛立っているような、怯えているような、それに混じってずるずると地面を擦る音が聞こえる。外であきらかに俺の予定外のことが起きている。ゆっくりと幌をめくって荷台から降りた。なにかを引きずった二本の線が、ランプの灯りが届かない暗闇まで伸びている。ぐっと目を凝らす。ふたりの男が転がっている。状況的に御者で間違いないだろう。喉笛を食い破られ、痙攣する肉の塊になっていた。その肉を取り囲む、宙に浮いた無数の赤。ああ、くそ。あれには見覚えがある。月光を反射して光る、あの赤い眼。
「……やっぱり出てくんのかよ」
濡れたように艶めく深い黒。尖った大きな耳。しなやかな筋肉と、美しい流線型のフォルム。猫に似た姿を持ちながら、冷酷な殺意を宿した化け物。オヴィンニク。周囲の暗がりにも複数の気配。俺という次の一品を求めて、唸りながら狙いをつけてくる。
「俺は避けようと努力したんだぜ。お前たちとまた会うことがないようにさ」
剣を鞘にしまい、返り血で汚れたシャツの袖を捲り上げる。会いたくなかった。戦いたくなかった。だから村がこいつらに襲撃されるかもしれないと知ったとき、さっさと出て行こうとしたのに。このネコ科の造形をした生き物たちは、俺の気持ちなんて一ミリも理解してくれないんだろう。
「ちなみに馬車にあと二体ごちそうが載ってる。それで見逃してくれたりは――」
言い終えるより早く、ゴッ、というこれもまた聞き覚えのある音が空気を震わせた。熱波が頬を撫で、遅れて髪の先が焦げる匂いが鼻を刺す。火球が地面に叩きつけられ、土と火花が跳ね上がった。近くに落ちた衝撃で馬車の車輪が跳ね、焦げた木の匂いもしてくる。
「危ねえなクソ、馬に当たったらどうすんだよ」
御者の体に群がっていた数匹が前に出て、低く、腹の底に響く唸り声を上げた。群れが一斉に重心を落とし、じりじりと包囲が縮まる。一度仕留めそこなった獲物だと覚えているらしい。一歩一歩、慎重かつ確実に近付いて俺の退路を塞ぐ。交渉の余地は無さそうだ。だからといって、やられてやる気もない。
「あーあーもう……。時間が惜しいってのに……」
指の骨を鳴らし、手首と足首を回す。手のひらの出血はまだ続いているが構ってもいられない。いまはこいつらのディナーにされないことが先決だ。
「毛皮を傷つけない保証はできねえぞ。満足したら帰れよな」
剣の代わりに固く握りしめた拳をかまえる。ボクシング、柔術、クラヴ・マガ、ジークンドー……。純粋に殺しのため、あるいは意識の高い上流階級との社交のために、乗馬やゴルフと同じように学んだあらゆる護身術の引き出しを頭の中で順番に開いていく。異世界の獣と取っ組み合うための型なんてひとつもないが、まあ問題はないと思いたい。骨があって神経が通っているのなら、生物学的な急所と重心の理屈は変わらないはず。あとは、この身体のポテンシャルを信じる。
「ほら、来るなら来い。躾けるのは嫌いじゃねえんだよ」
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