第40話 誤算Ⅰ
ニクラスの背中はすでに闇に溶けている。それでも辿った道ははっきり見えていた。視界じゃなく、頭のなかに展開された地図の上で。死に物狂いで逃げる人間が取るルートは単純だ。知っている道、光のある方向、人がいる場所。地図の中で光点の位置がリアルタイムに更新されていく。不安定に揺れながらも、最短距離で村の中心へ向かっていた。土地を知り尽くした地元民の動きだ。迷いがない。
「追いつけるかしら……」
耳元でサラヴェリーナが呟く。あいつらに拉致されている途中でヒールの片方をどこかに落としたらしい。仕方なく背におぶって走っている。読んで字のごとくのお荷物だ。一旦あの場に残していくことも考えたが、こいつはどんくさい。死体の近くに置いていくほうが余計な面倒を起こしそうだと判断した。
「ギリギリだな。静かにしてろ足手まとい」
しがみついてくる腕に力がこもる。大人の女だ、羽根のように軽いわけじゃない。豊満な体つきを気にいってはいるが、そのぶん重い。ニクラスの逃げ足の速さとサラヴェリーナの体重を抱えて走る身体の負荷を考慮すれば、騒ぎが起きる前に追いつける確率は五分五分といったところか。
「お前、誘惑魔法が使えるとか言ってたろ。なんであいつらに使わなかったんだ。惑わせて、言うこと聞かせたりできるんじゃねえのか」
「たしかにチャームは相手の好意を愛情や性欲に高めて、術者の望む行動を取らせやすくする。私のいちばん得意な魔法よ。でも、あなたが思っているような都合のいいものじゃない。弱点があるのよ」
「なんだよ、弱点って」
「術者に好意的な相手か、せめて中立的な相手にしか良い方向に作用しないの。ああいう、はじめから悪意や敵意をもった相手に使えば最悪よ。力づくで支配したいとか、壊れるまで辱めたいとか……とにかく暴力的な欲求を燃え上がらせて手が付けられなくなるの。逆に危険なのよ」
なるほど、筋は通る。悪意を抱いている相手に性的欲求を煽られて、紳士的な行動をとれる男は少ないだろう。それが差別や憎しみを根源にしているものならなおさら。行き場を失ったヘイトは暴力という形で発散される。火に油を注ぐようなものか。
「お前のいちばん得意な魔法は、いちばん役立って欲しい場面で無力と……。使えねえな」
「ちょっと、言いかた! 私だってルミナサイトがあれば多少は使えるのよ!」
早くもニクラスの光は村の中心部へと入り、昼飯を調達した市場をまっすぐに進んでいく。遅れて俺も通りに入り、ところどころに吊るされたランプの灯りでかろうじて奴の背中を目視で確認できた。人っ子一人いやしない。チャンスはある。だが次の角を曲がったところで、ひとつの答えにたどり着く。夜でも灯りがともる場所。人が集まる場所。ニクラスが向かっているのは酒場だ。あの賑わいの中に逃げ込まれたら、見たやつ全員を黙らせるために店ごと血の海にするしかなくなる。 罪のない酔っ払い共を相手に無双してなんになる? 俺の人生の汚点が増えるだけだ。
「……だめだな」
いま突っ込めば追いつける。だがその瞬間に負けだ。悔しいが狩りは失敗した、なら速やかに次の盤面へ移る。
「計画変更」
「え?」
「宿に戻る。装備と金目のものだけ持って即出る。 いいな、もたもたすんなよ!」
「でも、あいつは……!」
「すぐに騒ぎになる。相談してる時間はねえんだよ。お前が魔族だってこともバレるんだ、これ以上痛い目みたくなきゃ言うとおりにしろ」
ニクラスの背が酒場の中へ吸い込まれていくのを確認しながら、進路を宿へと切り替えた。




