第41話 誤算Ⅱ
ベルを鳴らさないように宿の扉を押し開ける。流し見たカウンターの向こうにベルジェの姿はない。幸運だ。念のため、取り付けられていた四つの内鍵をすべてかけ、サラヴェリーナを降ろして二階へ駆け上がった。部屋に飛び込み、椅子に掛けてあったシャツを掴んで袖を通す。
「急げサラヴェリーナ! 金と……いい加減まともな服を着ろ!」
「わ、わかってるわよ! ちょっと待って……」
テーブルに積んだままだった荷物の山から服を抜き出すサラヴェリーナの横で、ベルトと剣帯を締めた。ベッド脇に立てかけてあった剣を差し、枕カバーをひっくり返して中身を床に捨てる。空になったカバーの中に当面必要なぶんの食料や着替えを手早く詰め込んだ。一刻も早く立ち去りたいところだが、村の外をうろついているモンスターや野盗のことを思うと最低限の備えは必要だ。ここまできて野垂れ死になんてしてたまるかよ。
「なあ、風呂小屋で使われてる光る石があったろ。あれがルミナサイトってやつか? 要るなら盗ってくぞ」
「あれはただの魔石よ。どれも小さかったし、たくさん集めても一日に短時間お湯を温めるくらいの力しかない。採掘や小型モンスターから採れるものだし、危険を冒してまで盗む価値ないわ」
「いまは邪魔なだけか」
窓の外に耳を澄ませながら、残り時間を逆算する。ニクラスが酒場に飛び込み、自分たちの下劣な動機を隠した支離滅裂な被害報告をわめき散らす。ひととおり客たちに笑われる。話が信ぴょう性を帯びて混乱に発展するまでに、あと数分はかかるはずだ。
「いいわ! 必要なものはこれで全部、いけるわ!」
振り返ると麻袋を抱えたサラヴェリーナが扉の前に立っていた。くるぶし丈の素朴な緑色のワンピースの上から外套をはおり、フードを目深に下ろしている。
「よし。馬車までこれで我慢しろ」
荷物ごとサラヴェリーナを肩に担ぎ、階段を一気に駆け下りた。一階の扉に手をかける寸前、胸騒ぎを感じて足が止まった。経験と直感でわかる。開けちゃダメだ。なぜ。――そうだ、静かすぎる。酒場からかすかに漏れ聞こえていた喧騒がスイッチを切ったかのように止んでいる。虫の声すらしない。この不気味なほどの静寂。地図を呼び起こすまでもない、待ち伏せされている。扉を開ければゲームオーバー。
「くそっ」
一歩遅かった。情報の伝達が早すぎる。仲間が何人も殺されたなんて話を、酔っ払いの集まりがすぐに真に受けて立ち上がるか? 軍隊じゃあるまいし、疑いと混乱のステップはどうしたんだよ。多少のラグくらいあるだろうと踏んでいた。なんなんだ、どうしてこんなに早い? あたりを見回す。頭が勝手にフル回転して原因をつきとめようとする。たしか、酒場の亭主はベルジェの旦那。そして、喧嘩と酒が好きな息子が三人。昼間の光景がフラッシュバックして脳裏に焦げつく。カウンターの奥、ベルジェに連れられて入った部屋。興味がなくて一瞬しか見なかった、壁にかけられた色あせた家族の肖像画。
「……ああくそ、マジか。どうりであいつの偉そうな態度……」
「ネイト……?」
答えずに、カウンターに残された燭台を掴んで奥の部屋へ向かう。扉を蹴り開ける。頭の奥で何かが繋がりかけている。嫌な予感ほど当たるんだ。壁の肖像画の前に立ち、蝋燭を掲げて顔を確かめた。いまよりも少し細いベルジェ、隣に立つ年かさの男が旦那だろう。その二人の前に並ぶ三人の少年。そのうちのひとり、他の兄弟に比べて背が低い生意気そうなガキ。見覚えがあるどころじゃない。肖像画の少年とニクラスの顔が重なる。
「あいつ、この家の息子かよ……」
「え、誰が……? あの逃げた男が?」
最悪だ。鼻と歯を折られた村の権力者の息子、しかもおそらく好き放題に甘やかされて育った末っ子が血まみれで親の目の前に逃げ込んできた。その場で真偽を議論するバカはいない。仇を討つという大義名分。少しでも女将一家に取り入り、株をあげようとする媚びた義憤。盲目的な同調意識。空気に乗り遅れまいとする連中や、理由なんてどうでもいいから暴れたいやつら。歪な結束が固まり、宿を取り囲む。甘く見ていた。ニクラスではなく「村」という生き物を。
「正面はダメだ、別の出口を探――」
裏口を探そうと部屋から出た瞬間、正面の玄関扉に鈍い衝撃音が走った。建物の骨組みを揺らすような振動がブーツの下から伝わってくる。扉が内側へわずかに膨らみ、ひしゃげた蝶番が悲鳴をあげる。みしみしと木材が軋み、再び重い衝撃。そのへんの丸太を即席の破城槌代わりにでもしているんだろう。残念ながら効果は抜群。物理の法則は残酷なまでに正確だ。三度目の衝撃で扉は鍵も枠も道連れにして内側へ吹き飛んだ。飛び散った木片が床を滑り、俺の足元にまで届く。
「いたぞ! こいつらだ!」
「魔族とその情夫だ! 引きずり出せ!」
「人殺し! 逃がさねえぞ!」
情夫? なるほど、俺の立場はそういうことになるのか。訂正したい気もするが、粉塵と火の粉が舞うなか、松明に斧、鍬や干し草用のピッチフォークまで手にした男たちが次々となだれ込んでくる。統率なんてない。ただ濁流のような怒りだけが俺たちを標的にして向かってくる。
「嫌っ! 触らないで!」
「くそっ、離すなよサラ!」
四方八方から手が伸びてきて服や腕や髪の毛を引っぱる。ただでさえ獣脂臭い宿に汗と安酒の匂いが充満して胃がむかむかしてきた。荷物を捨て、肩から引き剝がされそうになっているサラヴェリーナを奪われないよう腕のなかに抱え込む。それでもその腕を掴まれ、殴られ、引っかかれ、暴力的な質量で宿の外へと引きずり出された。




