第37話 はやくⅠ
触れたまま、数秒見つめあう。肌を撫でる指に自分から頬を擦りつけて、サラヴェリーナがゆっくりと目を伏せた。唇がわずかに開かれる。こうなるのが当然とばかりの流れるようなキス待ちの顔だ。さすがとしか言いようがない、が――
「しねえよ、勘違いすんな」
顎を掴み、強引に顔の向きを変えさせる。
「傷だらけの女にがっつくほど飢えてねえんだよ。ほら、顔上げろ。よく見せろ」
「え……、あ……、ええ……?」
戸惑うサラヴェリーナを無視して傷をひとつひとつ確認する。腫れた頬の熱を確かめ、切れた唇の血を拭う。口を開けさせ頬の内側まで確認した。噛み傷も切り傷もなし。見た目ほど顔へのダメージはひどくない。でも、ブーツで蹴られた胸元には細かな擦り傷と赤紫に変色しはじめた痣が目立つ。
湧いてくるのは当然、同情じゃない。所有物を雑に扱われた不快感。腹の底で静かに渦巻く怒り。俺のものに、俺の許可なく傷をつけやがって。勝手に傷なんかつけられやがって。
「……くそ」
俺は自分自身の内側に確かなものをほとんど持っていない。国、社会、あらゆるコミュニティへの帰属意識は薄く、他人は観察の対象でしかなく、振る舞いは一流の模倣品。本物はすべてガラスの向こう側。
「殺し」がそのガラスを叩き割り、生を実感する最も強烈なドーピングだとすれば――「所有」は霞のように希薄な自己の輪郭を確認し、不確かな自分を確かな世界に繋ぎ止めておくためのアンカー。だから、俺は物持ちがいい。一度手に入れた輪郭を簡単には手放せない。そしてそれを害する者を絶対に許さない。
七歳の誕生日に贈られた愛猫のセイレムを蹴ったハウスキーパーは、うちの宝飾品をちまちまと質に流していた事実が〝偶然〟露見し年収十万ドルの職を失った。業界のブラックリストに載ったあいつは二度と富裕層相手の職につけない。
父さんから譲り受けた万年筆を盗んだプレップスクールのルームメイトは、女子寮のパーティーでハメを外しすぎたスキャンダラスなビデオが世界中の動画サイトで一斉配信された。推薦をすべて取り消され、名門大学への進学は消滅。ほどなく自主退学してたな。
大学時代にレストアした六十七年型のマスタングに悪戯で傷をつけたフットボール部の連中は、夜道で襲撃されタイヤレンチで膝を叩き壊された。二度とフィールドに立てなくなった奴らの転落っぷりは見ものだったよ。
俺の時計に傷をつけられることは、俺の皮膚が切り裂かれることと同じ
俺の車が汚されることは、俺の尊厳が汚されることと同じ
俺の奴隷を脅かすことは、俺の縄張りを土足で踏み荒らすことと同じ
「ネイト……? どうしたの、顔が怖いわ。そんなにひどい……?」
「……なんでもない」
つまり殺されて当然の許しがたい侵略行為ってことだ。感情論じゃない、純然たる安全保障上の問題だ。その足ごと粉砕機にかけて、二度と境界線を越えられない廃棄物に変えてやる必要がある。
「ほかに怪我は? 痛むとこあるか」
「いいえ、無いと思う。……心配してくれるのね、勝手なことをしたのに……」
「本当にな」
棘のある声を返しても、サラヴェリーナは怯えるどころか目を細めて笑った。叱られている顔じゃない。守られたと確信している顔だ。実際は心配じゃなくて検品だし、守ったのはこいつじゃなくて自分の輪郭。でも、そう思いたいなら今はそう思わせておく。顎を掴んでいる俺の手にサラヴェリーナの手が重なり、ゆるく握りしめてきた。冷えた指が絡んで心地いい。
「ごめんなさい。来てくれてありがとうネイト」
「……これがあるかぎりは俺のものなんだろ」
握られたままの手を隷属の紋様へと滑らせる。細い首だ。手のひらに規則正しい脈動が伝わってくる。紋様を覆うように少しだけ力を込めて締め上げると、サラヴェリーナは苦しげな、それでいて悦に入ったような声を漏らした。血の匂い。濡れた瞳。無防備に晒された肌。まだ燻っている殺しの昂揚が、じわじわと重い熱の塊になって下腹部に溜まっていく。……くそ、やりたい。ああは言ったが、やりたいことに変わりはない。こんなボロボロの姿でも、こいつはどうしようもなく美しい。




