第30話 かぐわしい死の香りⅠ
たゆたう意識のふちを、誰かの陽気な歌声が掠めていく。浅い眠りから浮き上がりまぶたを開けば、見慣れない部屋と腕のなかで規則正しい寝息を立てるブロンドの頭。ここはどこで、これは誰だっけ。霧が晴れるのに数秒。ここはシケた田舎の安宿で、これはサラヴェリーナ。俺はいまも異世界にいて、もろもろは夢じゃなく現実。
「ん……」
くぐもった声をあげてサラヴェリーナがわずかに身じろいだ。向かい合っている俺の胸に額を擦りつけながら埋まってくる。毛布のなかで裸の背中から尻にかけてを撫でると、シルクのように冷えたなめらかさが心地良い。どこを触っても濡れて火照っていた肌の名残りはすっかり消えている。
意地と時間をかけたご奉仕は、プライドを打ち砕かれたご機嫌ななめのサキュバスにもよく効いた。指で、声で、目で、舌で、使えるすべてをもって励んだ甲斐もあり、事が済んだころには憑き物が落ちたように大人しくなったサラヴェリーナは、ふたたび夢見心地の瞳で俺を見上げてきた。お気に召したようでなにより。なかなかに見応えのある痴態は目の保養にも暇つぶしにもなった。
「いま、何時だ……?」
無意識に体のまわりを手で探り、スマホなんてあるわけがないことを思いだす。換気のために開け放していた窓の外はすっかり闇に沈んでいて、ときおり笑い声や調子の外れた歌声が部屋まで流れ込んできていた。向かいの酒場はまだ賑わっている時間なんだろう。
気持ちよさそうに深い呼吸をくり返すサラヴェリーナの頬を軽くつねってみる。ふたりで風呂に入りなおして、湿りきったシーツを取り替えて、ベッドで適当にじゃれているうちに揃って寝落ちしたらしい。
「酒場か……」
行ってみるか? この世界のことをもっとよく知るためには少しでも足を使ったほうがいい。よそ者に向けられる酔った田舎者たちの悪意も、酒を何杯か奢ってやれば和らぐだろう。だけどどうかな、いまいちそそられない。家畜とヤッてるだとか、ガキの種は夫じゃないだとかの秘密を抱えてるやつは多そうだが、殺していいほどの罪を抱えたやつに出会える確率は低そうだ。この質の良い抱き枕を置いてベッドから離れるほどのうまみと愉しみを見いだせない。寝てたほうがマシ。
サラヴェリーナの体を抱きなおして、もう一度意識を手放そうと目をつぶった。
***
「……っ、う……、んん……」
「……」
「うっ……、ん、うっ……」
「……寝ててもうるさいのかよ、お前は……」
耳障りなうめき声に、落ちかけていた意識がまた引き上げられる。少し体を離してサラヴェリーナの表情をうかがうと、悪い夢でも見ているのか眉間に皺を寄せて苦しげに汗を滲ませていた。
「おい、起きろ。サラヴェリーナ」
「うっ……く……」
眠気の残滓を振り払い、本格的に目を覚まさせるべくベッドから抱き起こす。薄いまぶたの裏で眼球がせわしなく泳いでいる。
「夢だよ、起きろって。サラヴェリーナ、起きろ」
「……っ」
何度か頬を叩いて呼びかけると、やっと目を開けて俺を見た。正確には、瞳のなかに俺の姿を映しているのに俺を透かしてどこか遠くを眺めている。
「ほら、戻ってこい。こっち見ろ」
目の前で二度、三度と指を鳴らす。乾いた破裂音が響いてサラヴェリーナの肩がびくりと揺れた。
「起きたか?」
「……き」
「き?」
「木よ……、あの、広場……」
そう言って、俺を押しのけ裸のままベッドから出ていく。ふらふらと窓に近付き、枠に手をかけて身を乗り出しはじめた。
「ここ二階だぞ、外から丸見え。サービス過剰なんだよお前は」
聞こえてないのか、あえて無視してるのか、とくにリアクションは帰ってこない。この絶望的な危機管理能力の無さはどうにかならねえのか。これじゃ誘蛾灯だ。自ら悪い虫を呼び込んでいるのと変わらない。
「はあ……」
ベッドから出て、サラヴェリーナの体を窓枠から引き剥がす。見下ろした通りには酒場からの灯りが漏れているが、広場のほうは暗く静まり返っていた。薄く雲に覆われた月。そこだけ闇になり損ねたドブネズミ色の空を背景に、巨木のシルエットが黒々とそびえ立っている。
「木ってあの木か? まあ、気味の悪い木だけどよ。あれがなに? まだ寝ぼけてんの?」
「視たのよ……。あの木、燃えるわ。それに……死ぬ、村の人が大勢、傷つけられて……」
サラヴェリーナの顔色は血の気が失せて蒼白に近い。
「それも預言? 悪い夢じゃなく?」
「ええ」
鼻で笑いたくなるような話だ。それでもこいつには俺の正体を見抜いた実績があり、この手の発言もイカれ妄言だと流せないのが面倒なところ。
実際、この村の主な光源はロウソクやランプ。薪窯や暖炉が現役。火気が溢れているうえに、ほとんどの建物は燃えやすい木造の藁ぶき屋根。ちょっとした不始末や火遊びが原因で村ごと灰になる環境は整っている。
ただ――傷つけられて? 火事の犠牲の表現にしては違和感がある。
「ほかになんかねえのか。いつ起こるとか」
「わからないわ……。視えるのは、断片的な場面だけの。燃える木や家、血を流して倒れている人たち。それから夜、それは間違いないはずだけど……」
「夜ねぇ。つまり今夜って可能性もあるわけか」
火から連想できて、人々が傷つけられ倒れ伏し血を流すイベント。心あたりがひとつだけある。あの邪悪な黒い猫、オヴィンニクの襲撃。切り裂き食いちぎり、なにかれ構わず火球をぶつけるあいつらならサラヴェリーナが視た通りの凄惨な場面を作り出せるだろう。
「よし、出てくぞサラヴェリーナ。服着て、荷物まとめろ」
「え……?」
まだぬくもりの残るベッドは惜しいし、物資も心もとない。けど、あれはダメだ。関わりたくない。相手にするくらいならどちらも捨てて出ていく。サラヴェリーナを離し、そこらに脱ぎ捨てたはずのズボンを探すことにした。




