第15話 ミス・フォーチュンⅠ
遮るものがなにもなくなった空には大きな月と小さな月がいくつか浮かんでいて、時折、常識を外れた色彩を放つ。知っている星座はひとつもない。聞こえてくるのは、車輪が土を噛む音。心地良いリズムを打つ蹄の爪音。虫か小動物か、よくわからないなにかの鳴き声。ああ、まさしく異世界らしい夜。
殺しの熱も、猫たちとの追いかけっこで昂ぶった神経も、この原初的な景色の中でゆっくりと冷めていく。ひとまず自分が把握している状況をサラヴェリーナに話して聞かせた。もちろん、女の頭を潰していただとかの面倒なリアクションを引き出しそうな部分は端折って。
「ええと……つまり、本当のあなたは別の世界で亡くなっていて……意識だけが別人の体に入ってる……? だから、この世界のことを何も知らない……?」
「そ」
乗り心地重視で歩ませている馬たちは、ゆったりとした速度で平原を進んでいる。湿った土と夜露に濡れた草の青臭い匂いが肺を満たし、ゆるやかな振動が眠気を誘う。風に揺れるたてがみをぼんやり眺めていると、まじまじとこちらを覗き込むサラヴェリーナが視界に入ってきた。
「気の毒だわ……。あなた、どこかおかしいのね……?」
真剣そのものな瞳になんとなく気安く、にこりと微笑みを返す。「おかしい」ね。これまでの行いや人生を鑑みれば、それはどうにも否定できない。
「けど実際、お前はこの身体の運命が変わるのを視たんだろ? 俺がおかしいなら、お前の視たものだってイカれた妄想ってことにならねえのか?」
「なによ、失礼ね……そんなわけないじゃない」
「中身が別人になったから辿る運命が変わった。充分、筋は通ってると思うけどな」
「それでも、別の世界なんて……そんなの信じられるわけ……」
サラヴェリーナの視線が不安定に泳ぎ、結局はまた俺の元へと戻ってきてしまう。
「そこで悩むのは時間の無駄だよ。お前が信じようと信じまいと俺には関係ないし、重要でもない。隠してても話が進まねえから話しただけ。ただの純然たる事実、自己紹介として流しとけばいい」
「流すって……わけのわからない男の奴隷にされた私の身にもなりなさいよ……」
やや強引に話を打ち切ると、サラヴェリーナは不満そうに唇を尖らせた。ごもっともな意見だ。だが、いまは終わっちまった世界の感傷に浸る気分じゃないし、異世界の存在を証明なんてつまらなそうなことに時間を割きたくもない。せっかく始まったボーナスステージだ。バックミラーばかり確認するより、フロントガラスの向こうに広がる未知の世界についてを知りたい。
「とりあえず、俺がこの世界の常識を知らないってことを理解してくれればいい。魔法やらモンスターやらはもちろん、地理、歴史、信仰、そのあたりの知識は皆無。衣食住や医療レベルは大体の想像がつく、でも実態は知らない。現にその首輪だって簡単に俺の想像を超えてきたからな。お前に求めるのは俺がここで愉しく生きていくためのサポートだよ」
手綱を握ったまま、体をずらしてサラヴェリーナの肩にもたれかかる。わざとらしく、つま先から胸元まで値踏みする視線を這わせた。
「当然、愉しみの中にはお前のその体も含まれる、わかってるよな?」
世慣れしていない女なら、ここで怯むか嫌悪を滲ませるか。だが、サラヴェリーナはどれでもなかった。俺からのふざけた視線や笑顔にも、目尻をほんの少しだけ細めて退屈そうに見返してくるだけ。おまけに髪を払う仕草で俺を邪険にした。さすがは無法者がはびこる世界を生きる大人の女。面倒な男の扱いに慣れている。いや、単純にサキュバスゆえの男慣れか? どっちでもいいか。無理強いさえしなければ、そのあたりの要求を通すのは難しくないらしい。猫の餌になったあのバカ共に教えてやりたいね、脚を開いてくださいと頭を下げて頼んでりゃよかったのにな。




