第五章:記憶の屠殺場
こんばんは、皆様!!今回の章も楽しんでいただけると嬉しいです!!
空は曇っていたが、雨は上がっていた。赤い門の左からは肉の焼ける匂い、人ごみの高い話し声、行き交う車。神経を集中させられなかった。フクロウは喧騒に顔をしかめた。これだけ大勢の人が一度に騒ぐのには慣れていない。痛み、じわりと血がにじむ喉を抱えたまま、彼は左に曲がり、赤い門をくぐった。
小ぶりの茶色い建物が並び、その向こう側、門の両端から先にあるもうひとつの赤い門まで、細い糸が結ばれ、赤いランプがぶら下がっていた。電柱の線もやたらと多かった。路地の左と右の角では人が歌い、中華の食べ物を売る露店がずらりと並んでいた。全部が奇妙で、それでいて居心地がよかった。とりわけ車は目新しいもので、歩行の邪魔にはなったが。
そのまま真っ直ぐ進むと、四つの道の交差点に出た。正面には三つの道。右手へ続く先には今度は小さな門があり、脇には狭い入口。左では道がYの字に分かれていた。どちらへ向かうものか迷ったが、明るくて騒がしい場所——小さな門のほう——だけは避けたかった。Yの字の左側へ入り、人けがまばらで音も少ない右手を選んだ。
しばらくすると、右手に路地を見つけた。二の足も踏まずに入る。少し行くと、左の壁に傾きかけた看板がかかっていた。『クリニック』。
(クリニック? こんな人気のない路地の中に?)
迷わず中へ入った。
* * *
中では、背の高い女——百八十九センチ——がモグリの医者に背中を向けて腰掛けていて、医者がその背中を縫っているところだった。古い革と血の匂い。それに、白く甘いモルヒネの匂い。女が上体をひねると、関節がボッ、ボッと鳴った。石がゆっくり割れるような音だ。二人の目がフクロウに向いた。
「えっと……ここが、クリニックですか? ちょっと、なんか——」
「汚い、だろう? 俺も来た時に思ったさ。だがこのジジイは縫うのがうめぇ。……で、その喉どうした? ずいぶんガラガラ声じゃねぇか。叫びすぎたか?」
「いや、違う。依頼の最中に詩句を使ったせいだ。喉はいつもこうなる。……慣れた」
ジジイは訝しげな目でフクロウを見た。
「んで? 何しに来た? 診察か? まあ、その悪い喉を診てほしいんだろうがな。三千キスいただくぜ、小僧」
「はあ? 三千キス? どこでそんなカネを都合するんだ。そんな額、持ってねぇ。今月は一部で、残りは来月ってのは駄目か? 手持ちは千八百キスしかねぇ」
「すまんが、それは勘弁できねぇなあ。金が集まってから出直しな——」
「おい、待て。つまり、カネに困ってるってわけだな? ちょうどいい話がある」
フクロウは怪訝な顔をした。が、このまま引き下がって、ただ声を取り戻すのを待つわけにもいかない。ため息をついた。
「……話だけ聞こう。頼れる場所もねぇ。カネさえ払ってもらえるなら、なんでもやる」
「ほう? 上等だ。ならカネの代わりに、力を貸してやろう。今夜の治療費は俺持ちだ。いいな、先生?」
「ああ。だがツケられたら……面倒なことになるぞ」
「心配すんな、遅れはしねぇ。……んで、テメェの名は?」
「フクロウ。……フクロウ・ヴァエスタン。そちらは?」
「ヴァエスタン? 変わって妙な名だな。俺はクマ。それだけ知ってりゃいい。馴れ馴れしいのはナシだ」
クマの隣には長い台があり、その上には資料が広げてあった。王都の一帯をうろついている五体の鬼神候補の情報だった。
「隣の書類を取って読め。集めておいた候補は五体。どれも性格も立ち回りも違う。目が何つもあって口のない化け物みてぇな普通の鬼神じゃねぇ。こいつらは利口で素早い。考えるし、徒党も組む——『人』として暮らしてる。密売人、清掃婦、ここらで有名な会社の記録係、患者殺しの容疑が持たれながら証拠不十分な医者、上層部出身の元・狩人。そんで最後、まず手をつける奴が——空殻の密売頭だ。空殻が何かは、説明不要だよな?」
「……で、俺がどう関係あるんだ?」
「そういうことだ。俺の周波数の嗅覚はとてつもなく鈍い。嗅ぎ分けができねぇ。それに、確証もなしに殴り倒したら、むしろこっちが首を刎ねられる。……そこでテメェの出番だ。蝋だな。奴らの間に潜り込ませて、テメェの『スタティックな血』を一滴出して、奴にぶつけろ。手首を切るなり、喉を裂くなり、なんでもいいからな。音が歪んだら、そいつは人間じゃねぇ——変装した鬼神だ。そしたら、ぶっ潰すだけだ。わかったか?」
「……ひでえ計画だな。だが、カネは出るんだろう?」
「おいおい小僧、喉の世話はもうしてやるって言ったろうが。まだカネの話か?」
「カネは木に実らねぇ。……せめて千五百キス。それでも上等だ」
「テメェの懐に届くかどうかは保障しねぇが、ほら。先生! その擦れたレコードみてぇな喉、さっさと直してくれ!! 狩りに行くぞォ!!」
モグリの医者は数時間かけて、共振の術でフクロウの喉を直していった。あいだにクマは、さらなる情報を掴もうと出かけていた。
* * *
日暮れ、黄昏が深まると、王都は一度ぜんぶ押し黙り、赤と黄色のランプの灯りでふたたび点った。フクロウとクマは細い道を歩いていた。行き交う人、温かい黄の光。卵焼きの匂い、皿の音、話し声と叫び声。喉は戻った。だが、フクロウの感覚は相変わらず喧騒に乱されていた。
歩きながら、クマは行き先を話し始めた。
「いいか。狙いはカツモって野郎だ。向こう、北の大陸の外国から来たらしい。その大陸は知らねぇが、俺たちの見たこともない化け物がいるって噂だ。あっちじゃ、空殻を集めては皆殺しにして周波数を奪い、力をつける風習があるらしい。カツモみてぇな連中は、その『商品』を売ってる。……倉庫の真ん中には、カツモの手先が人の父親と……子供を捕らえてる。被害が増える前に駆けつけなきゃならねぇ。可能なら、カツモの情報も絞り取る」
倉庫に近づくと、鉄の匂いと硫黄の味がした。近づくほどに、フクロウの周波数は強くなっていく。その時、叫びが割れ——
「たすけー—」
「うるせえ!」
二人は格子の隙間から覗いた。
倉庫の真ん中で、背広の男が子供の髪を掴んで立っていた。その足もとでは、子供の父親が縛られたまま命を乞うていた。
背広の男は躊躇わなかった。刃を子供の喉に突き立てた。
血が飛び散った、その同じ瞬きのうちに——父親の目が見開かれた。人生の心の錨が、その激しい死とともに書き換えられた。頭蓋が崩れ、瞳から色が抜けて乳白に曇り、体から力が抜けていく。その場で、父親は空殻になった。
背広の男は口を開き、父の体から昇る分厚い『音の霧』を吸い込んだ。奪われた周波数だ。
クマは歯を噛んだ。手の骨が鳴った。
「フクロウ。試せ。今だ」
フクロウは鉄の扉を蹴り開けた。音が倉庫に響いた。背広の男は振り返り、人の驚きを装った。
「おいおい、何だテメェら? 俺は衛兵に賄賂を払ってるぞ!」
フクロウは答えなかった。左親指の先に歯を立て、皮膚を破る。冷たく粘っこい血が滲んだ。指を鳴らし——摩擦で電磁気を起こす。血の一滴が宙に立ち、弾丸みたいに男の顔面へ撃ち出された。
その一滴は、男の鼻の数センチ手前で止まった。
ズッ、ズズズッ——ガッ!
男の顔の周りの空気が、恐ろしいほど歪んだ。倉庫の音が、壊れたカセットテープみたいに裂けた。
「鬼神だ!」フクロウが叫ぶ。
クマは一ミリも待たなかった。
ブーツがコンクリートを踏み締め、石灰化した膝が弾丸のような破裂音を立てた。戦車みたいに突進し、素手の拳が男の胸のど真ん中に突き込まれた。
肉の裂ける音はなかった。あるのは地底で鳴る太鼓のような、鈍い轟きだけ。その低周波の衝撃が、狙いの胸郭を沈めた。
だが、キシンは破れなかった。ただ、笑みを浮かべて滑るように後ずさった。
クマは下がり、目を見開いた。
「……マズい」
背広の男は自分のシャツを引き裂いた。クマの一撃で死ななかったのは、そこに臓器が無かったからだ。胸には穴が開いていた。その奥で、機械仕掛けめいた肉の核が、赤く、不安定な、狂暴な周波数に震えあがっている。
共振の爆弾だ。いまにも弾ける。
「逃げるぞ!」クマが怒鳴った。
フクロウは踵を返して出口へ走り出した——が、倉庫の影が蠢いた。天井の梁から、巨大で形の定まらない五つの影が降り、鉄の門を塞いだ。さらに五体のキシン。
その背後で、男はゆっくり、ゆっくりと歩き寄ってくる。胸の唸りはどんどん鋭くなっていく。
——完全に、閉じ込められた。
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