第三章:冷熱の脈動、失われゆく残響
こんばんは!
それでは、本編をどうぞお楽しみください!!!
午前六時半。キツヤの森の霜は、泥道を硬く凍りつかせていた。肺に吸い込む冷気は酢のように酸っぱく、深く息をするたびに喉の奥が割れたガラスで擦られるように痛んだ。
フクロウは一言も発さずに歩いていた。炭で汚れた長い指先は強張り、とうに感覚が消え失せている。十歩進むごとに左手を口元に当て、拳に熱い息を吹きかけた。刀の柄頭を握る感触だけは、何があっても失うわけにはいかなかった。
生まれつきの淀んだ血流が、鉛のような重みとなって四肢にまとわりついている。昨夜の河原で尖った石に打ちつけた左肘がズキズキと鈍く痛み、寒さと相まって男の機嫌をこれ以上なく悪化させていた。
その隣を歩くカグラマは、まるで生気のない蝋人形だった。昨夜の破壊された小屋で飲み込んだ恐怖の残滓が、少年の顔を土気色に染め上げている。二人の間を満たす重苦しい沈黙の中で、唯一響いていたのは、三歩後ろをぴんと尻尾を立ててついてくる耳の欠けた黒猫の、軽やかな足音だけだった。
正午近く、木立が途切れ、クロヤ国最初の集落が見えてきた。灰色の泥の中に、粗末な木造の掘立小屋が身を寄せ合うように立ち並んでいる。凍てつく風の中、毛布を頭から被った村人たちが足早に行き交っていた。山の異変に怯え、誰もが周囲の森を警戒するように視線を走らせている。
フクロウは汚れた眼鏡の奥で目を細めた。
街道の入り口、傾いた松の丸太で組まれた粗末な露天の天幕。梁から吊り下げられていたのは、死者の弔いに用いられる『念珠』の束だった。
「僕……何か温かい汁物でも探してきます」
カグラマが合羽の襟を引き上げながら、掠れた声で呟いた。
「まだ少し、小銭がありますから」
フクロウは無言で顎をしゃくり、露店へと足を向けた。
店番をしていたのは、背の高い痩せた女だった。柔らかな顔立ちの奥に、割れた瓶の底のような冷徹な警戒心を潜ませている。フクロウが念珠の値段を低く尋ねると、女の貼りついたような営業用の笑みが一瞬で消え失せた。男のシャツについた乾いた血の跡と、その身に漂う濃厚な死臭に気づいたからだ。
「十五キスだよ」
女はぶっきらぼうに吐き捨て、早々に天幕を畳み始めた。
フクロウは暗い板の上に三枚の銅銭を無造作に放り投げ、黒ずんだ木珠の束を掴み取ると、礼も言わずに背を向けた。
小川沿いの崩れかけの旅籠で少年と合流し、フクロウは宿の老婆に銅銭を二枚握らせて黒猫に干し魚の残り粕をやるよう頼むと、二人は井戸水臭い蕪の薄い汁を胃袋に流し込み、再び街道の泥道へと戻った。
午後一時を回る頃には、木々の暗い天蓋が昼の光を完全に呑み込んでいた。
森の南の谷へ下るにつれ、大気はいよいよ腐敗の度合いを増していった。鼻腔を突く濃密な硫黄の異臭と、ヘドロの混ざり合った生臭さ。気圧が不気味なほど落ち込み、胸の上に重い石を乗せられたように息苦しい。フクロウは自らの心拍が危険なほど遅く、弱々しく落ち込んでいくのを感じていた。
「離れるなよ、クソが」
フクロウは低く唸り、右手を腰の刀の柄へ滑らせた。
「地面が鳴ったら、手近な木の根の穴に頭を突っ込め」
カグラマは喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。火の消えたカンテラを握る少年の指先が、白く強張っている。
轟音が森を切り裂いたのは、その直後だった。
道の右手から、三本の若い杉が根こそぎへし折れ、焚き木の枝のように宙を舞って山道へ叩きつけられた。湿った霧の奥から、幼子の悲鳴と女の狂乱した叫び声が響き渡る。
フクロウが目を凝らした。
あの露店の女だった。泥に足を取られながら、三つ編みの幼い少女を必死に藪の外へと突き飛ばしている。そしてその背後の暗がりから、圧倒的な質量を誇る巨躯が立ち塞がっていた。
――鹿角の鬼神。
枯れ木の枝のように何股にも分かれた凶悪な角が、青白い頭蓋を突き破り、黒い血管が網目のように拍動している。フクロウは奥歯を噛み締めた。この腐った血の臭い、骨を軋ませる不快な周波数……一ヶ月前、彼が案内人の仕事を始めたばかりの頃に山中で遭遇し、首の付け根に深い刀傷を残して辛くも逃げ延びた『あの怪物』だった。
怪物は引き抜いた樫の大木を片手に振りかぶり、逃げ惑う母子を叩き潰そうと振り下ろすところだった。
「カグラマ! ガキを引っ立てろッ!!」
フクロウが吠え、白刃を一気に引き抜いた。
怪物の動きは巨体に似合わず凶悪なほど速かった。男の突進を察知した鬼神が、水平に樫の丸太を薙ぎ払う。
泥に足を取られたフクロウは跳ぶことを諦め、両手で刀を立てて丸太の直撃を峰で受け止めた。
鉄の荷馬車に真正面から激突されたような衝撃。
フクロウの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、背中から松の幹へと叩きつけられた。激突の衝撃で眼鏡の左側のレンズが蜘蛛の巣状に砕け散り、視界が灰色にひび割れた。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、泥の中で膝がもつれる。左肘の激痛が火花のように走った。この凍てつく寒さのせいで身体が重い。血の巡りが遅すぎる。この鈍い動きのままでは、二合と持たずにミンチにされる。
迷っている暇はなかった。
フクロウは刀を逆手に持ち替えると、自らの左の前腕へと迷わず刃を突き立て、深く肉を引き裂いた。
肉が裂け、熱い鮮血が泥の上にドッと噴き出した。
激痛のショックと急激な流血が、心臓へ強烈な非常警報を叩き込んだ。
ドクンッ! ドクンッ! と、冷え切っていた心筋が狂ったように跳ね上がる。血液の中の鉄分が体内で凄まじい摩擦熱を発生させ、傷口から白い蒸気が濛々と立ち上った。
限界領域の脈動点火。
フクロウは泥を蹴った。綺麗に走る余裕などない。倒木を足場にしてがむしゃらに跳び、母子へ振り下ろされようとしていた丸太の軌道へ、力任せに刀を叩きつけた。
超振動を帯びた鋼が丸太を弾き飛ばす。
たたらを踏んで後退した鬼神の口から漏れたのは、獣の唸り声ではなかった。それは、あまりにも生々しい――苦痛に歪む人間の悲鳴だった。
杉の根の陰で少女を抱きしめていたカグラマが、その場で凍りついた。泥の中にカンテラが滑り落ちる。
少年の瞳が見開かれた。
頭上の禍々しい角と黒ずんだ血液の下、怪物の肩口に食い込んでいたボロ布――泥に塗れた、白いウールの外套の残骸。そしてその顎の先端には、あの木炭の絵と同じ、古い裂傷の痕跡。
森の湿った空気の中に漂っていたのは、腐敗臭だけではなかった。
微かに、だが確実に――あの王都の病院の、樟脳の匂い。
「父さん……?」
カグラマの口から漏れたのは、迷子になった子供のような細い呟きだった。
「父さん……その服、どうしたの……?」
鬼神の巨頭が、ぎぎぎと音を立てるように少年に向けられた。白濁した盲目の瞳が、激しく揺らいでいる。
怪物の指から樫の丸太が滑り落ち、泥の上に重い音を立てて転がった。怪物は足をもつれさせながら、泥に塗れた両手をカグラマへと差し伸べた。口元から黒い粘液を滴らせながら、助けを求めるように。
「父さん、やめてよ……」
カグラマは泥の中に膝をついた。歯の根がガチガチと鳴り、全身の力が抜けていく。
「母さんが……温かい汁物を作って待ってるんだよ……家に帰ろう、父さん……お願いだから、僕を怖がらせないでよ……ッ」
怪物が一歩踏み出し、苦悶に胸を波打たせながら、震える拳を振り上げた。自らの狂気と絶望に引き裂かれ、我が子をその手で叩き潰そうとするかのように。
フクロウはその間合いへと、がむしゃらに滑り込んだ。
奇跡的な時間停止など起こらない。
左腕の傷口から血を撒き散らしながら、フクロウは怪物の懐へと泥を滑るように潜り込んだ。
狙うは、一ヶ月前に自分が切り裂いた、あの首筋の古い傷跡。
両手で柄を握り締め、己の全体重を乗せて切っ先を突き立てた。
綺麗な太刀筋ではない。腐った軟骨を無理やり押し潰すような、鈍く耳障りな不協和音。フクロウの鮮血が柄を通じて刀身へ流れ込み、超高周波の振動が怪物の首の繊維を内側から破壊し尽くした。
怪物が息を詰まらせ、頭部が天を仰いだ。
巨躯が崩れ落ち、フクロウはその重みに押し潰されるように泥の中へと倒れ込んだ。頸動脈から噴き出した黒い飛沫が、フクロウの顔面を真っ黒に染め上げた。
豪雨が森を打ち据え、血と泥を洗い流していく。
フクロウは怪物の死骸を泥まみれのブーツで力任せに蹴飛ばし、息も絶え絶えに這い出た。刀を杖代わりに泥の上に立ち上がると、胃の底からせり上がってきた黒い血の塊を吐き捨てた。
露店の女は少女を抱きかかえ、振り返ることもなく集落の方角へと逃げ去っていった。
カグラマは同じ場所に膝をついたまま、雨に打たれていた。
だが――何かが壊れた。
少年の泣き声が、唐突に止まったのだ。
顔に張り付いていた生々しい絶望が、まるで泥水に溶ける安物の絵の具のように、急速に抜け落ちていった。カグラマの瞳は濁ったガラス玉のように虚ろになり、泥濘の中に横たわる怪物の死骸を、まるで道端の石ころでも見るかのような無表情で見つめていた。
少年は瞬きをし、不可解そうに自分の泥だらけの掌を見つめた。
「……あれ?」
カグラマの口から、何の感情もこもっていない乾いた声がこぼれた。
「僕……なんで泥の中に座ってるんだ? この化け物は……何だ?」
フクロウは手の甲で口元の血を乱暴に拭った。
鬼神の死は、その魂の痕跡を世界から削ぎ落とす。遺された人間が発狂しないよう、世界が強制的に記憶を洗い流してしまうのだ。
フクロウは血に塗れた右手を、濡れた外套の内側へと突っ込んだ。
取り出したのは、四つ折りに畳まれたあの木炭の紙片と、数時間前に山道の道端で拾い上げていた、踏みにじられた紫色の小さな野花だった。
「受け取れ」
フクロウは擦れた声で吐き捨て、少年の膝の上へそれを投げつけた。
カグラマは怪訝そうに花を見下ろし、それから震える指先で紙を開いた。
そこに描かれていたのは、あの素描――頑固そうな角張った顎、徹夜続きの深い隈、左に曲がった鼻筋、そして猫が跳ねてできた耳の傷。
「忘れちまった方が楽なのは分かってる」
フクロウの濁った灰色の瞳が、冷徹な重みで少年を射抜いた。
「苦しまないように、頭が勝手に記憶を消去してんだよ。だがな……親父さんの存在を無かったことにして、ヘラヘラ笑って王都に帰るつもりか? そんな腑抜けたガキになるなら、今ここでくたばれ。紙を見ろ。その絵を、絶対に手放すんじゃねぇ」
カグラマは微動だにしなかった。
少年の泥まみれの指先が、紙の上の耳の傷の線をそっとなぞった。
刹那――少年の喉から、痛切な、引き裂かれるような悲鳴が噴き出した。
木炭の輪郭が、記憶の急流を力づくで引き戻したのだ。カグラマは紙を胸元に固く抱きしめ、指の間に花を握りしめながら、今まさに父親を失った一人の子供として、泥の中で慟哭した。
フクロウは肩を叩きに行くような真似はしなかった。
泥の中から鞘を拾い上げ、割れた眼鏡の破片をシャツの裾で乱暴に拭うと、雨に煙る森の空を見上げた。
「立つぞ、坊っちゃん」
いつもの気だるく、乱暴な声に戻っていた。
「足を動かせ。暗くなる前にあの旅籠へ戻るぞ。お前を背負って歩く気なんざ、これっぽっちもねぇからな」
フクロウの物語をここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!!!
今回のエピソードも楽しんでいただけたなら嬉しいです!!
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それでは、素晴らしい週末をお過ごしください!!!
次回は【来週金曜日の午前07:45】にお会いしましょう!!!




