第二章:朽ちた板小屋と霧の中の角
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『カエタラ』第2章、どうぞお楽しみください!!
雨が上がったのは、午前八時を少し回った頃だった。
だが、キツヤの森はいまだ絶え間なく雫を落とし続けていた。
大気には濡れた土と腐った杉葉の、あの陽の光を浴びたことのない奥山特有の酸っぱい匂いが充満している。密生した木々の合間から時折差し込む弱々しい木漏れ日が、足元の濡れた山道に白い斑点を落としていた。
道の脇、半ば泥に埋もれた首なしの道祖神が佇んでいた。苔むした石の膝の上には、錆びて緑青の浮いた銅銭が置かれたままだ。もう何十年も、誰も拾おうとすらしない小銭。
フクロウは左足の踵を引きずるようにして歩いていた。
破れたブーツはもう泥を吸う音こそ立てなくなっていたが、冷気で革が強張り、小指の魚の目を容赦なく締めつけている。腰の刀は、冷えた鉛の塊のように重かった。
時折、背後を歩く少年に視線を投げる。
カグラマは二歩ほど後ろで肩を丸め、火の消えたカンテラを膝にぶつけながら歩いていた。安物のブリキがカン、カンと耳障りな音を立てる。その視線は泥から離れない。
無理もなかった。
川の怪異を斬り捨ててからというもの、森の静寂は別の重みを帯びていた。鬼神を殺すことは、獣を狩ることとは違う。肉体は黒煙となって消えるが、それがかつて名前と人生を持った人間だったという苦い後味だけが、舌の根にへばりついて離れないのだ。
「なあ、カグラマ」
フクロウの掠れた声が、湿った静寂を割った。
「親父さんに、早く会いてぇだろ」
カグラマの足が止まった。木の根に靴が少し滑り、立ち止まる。鉄のカンテラを握る指に力がこもった。
「……当たり前です」
フクロウも立ち止まり、半身だけ振り返った。いつもの眠たげな顔つきのまま、汚れたレンズの奥からじっと少年を見つめる。
「見つけてやるよ」
乾いた声で言った。
「だが……もし最悪の事態になってたら。親父さんがもう別のモノに成り果てて、お前の頭からあいつの顔が消えかけてたら……俺が描く絵を、必ず受け取れ」
カグラマが息を呑んだ。喉仏が大きく上下し、唇が微かに震える。少年は目を逸らし、前方の藪へ視線を逃がした。
「……まずは、濡れない場所を探しましょう。話すのは、その後です」
それから十分ほど山道を下ると、浅い川のほとりに出た。
砂利混じりの岸辺と三本の巨大な杉に挟まれるようにして、黒ずんだ板張りの小屋がひっそりと佇んでいた。粗末な板の濡れ縁と、防水筵を敷いた低い屋根。小屋の周囲の雑草は綺麗に踏み固められており、誰かが――あるいは何かが――頻繁に出入りしていることを窺わせていた。
カグラマが目を細めた。都育ち特有の警戒心が顔を出す。
「小屋……? こんな森の真ん中に、縁側付きの小屋ですか。フクロウさん、間抜けな旅人を誘い込む罠にしか見えませんよ」
フクロウは首を左右に鳴らし、大あくびを噛み殺した。
「正直に言ってやるよ。もし罠だとしても、俺は喜んで引っかかるね。背中はバキバキだし、足の裏は痺れてるし、靴下の中で毒キノコが生えそうだ。頭の上に板が一枚あって雨をしのげるなら、悪魔の屋敷だって文句は言わねぇよ」
腐りかけた二段の踏み板を上がり、肩で戸を押し開けた。
錆びた蝶番が耳障りな悲鳴を上げる。
中の空気は、カビと干からびたネズミの巣の匂いが充満していた。狭い板の間。奥には冷え切った灰が残る石積みの炉があり、脚の歪んだ四角い卓と、背もたれの硬い椅子が三脚転がっている。
フクロウが卓の板を掌で払うと、白っぽい埃が粉のように舞い上がった。
二人は同時に腰を折り、激しく咳き込んだ。
「ゲホッ……くそが……肺に泥を流し込まれたみたいだぜ」
フクロウはシャツの袖で鼻を覆い、涙目で悪態をついた。
カグラマは何も言わず、戸の裏に放置されていた古い藁箒を手に取ると、床の埃を外へ掃き出し始めた。
フクロウは奥の様子を見に行った。
湿った木の匂いがする短い廊下。引き戸が三つあった。一つ目は虫食いの薪と底の抜けた鉄鍋が転がる物置。二つ目は『く』の字に曲がった狭い部屋で、壁と筵を垂らした窓の隙間に、煎餅布団が敷きっぱなしになっていた。
「俺はここにすっか」
フクロウは腰の刀を床に放り出した。
「布団はあるが、掛け布もありゃしねぇな。まあいい、板の間よりはマシだ。だが……もし蜘蛛が出やがったら」
顔を歪め、心底嫌そうに吐き捨てる。
「この小屋ごと焼き払ってやる。あの足の多い化け物だけは昔から虫唾が走るんだ」
突き当たりの三つ目の部屋は少し広く、窓から川のせせらぎが聞こえていた。
埃を掃き終えたカグラマが、箒を肩に担いでフクロウの部屋を覗き込んできた。そして呆れ返ったように目を丸くする。
「……あの、フクロウさん。荷物はどこですか? 毛布は? 着替えは?」
「着てるもんだけだ」
フクロウは柱に背中を預けた。
「嘘でしょう……三日三晩の護衛を引き受けておいて、手ぶらなんですか? あなた、野生動物か何かなんですか?」
「婆ちゃんにもよく怒られるんだよ」
フクロウは無精髭を擦りながら、薄笑いを浮かべた。
「だが今回はわざとだ。雇い主の坊っちゃんがこれだけの大金を出すんだ、宿の用意くらいあると思ってな」
カグラマが眉根を寄せた。
「誰があなたの乳母ですか。言っておきますけど、前払いの金を持ち逃げして逃げようなんて思わないでくださいね。報酬を渡すのは、父さんと僕が無事に王都へ帰れた時だけですから。……ほら」
少年は自分の防水合羽の鞄から、折り畳まれた清潔な羽毛枕を取り出し、フクロウの胸板めがけて放り投げた。
「使ってください。次はちゃんと自分の荷物をまとめてきてくださいよ」
フクロウは枕を器用に片手で受け止めた。
「ありがとよ、雇い主様。安心しな、飯はちゃんとある。塩と干し肉、それに野草の根っこを持ってきてる。後で煮込んでやるよ。まずは薪を拾ってきて炉に火を入れるか」
***
正午を過ぎる頃には、屋根に陽が当たり、小屋の中は肌寒さを感じない程度まで温まった。
納屋で見つけた欠けた茶碗で薄い汁を啜っていると、開け放した窓の桟からカタリと小さな音がした。
黒猫だった。
小柄で、毛並みは痩せこけ、右耳の先端が古い喧嘩で欠けている。煙のような足取りで、音もなく板の間へと滑り込んできた。
フクロウはお椀を手に持ったまま、指を鳴らした。
「おい、こっち来い。飯やるぞ」
黒猫はフクロウを一瞥することすらなく、尻尾をぴんと立てたまま二人の間を通り過ぎた。そして三脚目の空いた椅子にひらりと飛び乗ると、丸くなって即座に眠りに落ちた。
フクロウは木のスプーンをくわえたまま固まった。
「……他人の家に勝手に入り込んできて、飯もねだらずに特等席で寝やがった。お前そっくりだな、カグラマ」
カグラマは吹き出し、熱い汁を気管に入れて激しくむせた。
午後は静かに過ぎていった。
夜通し歩き続けた疲労が、二人の身体を泥のように重くしていた。
四時を回った頃、カグラマが目を擦りながら濡れ縁に出ると、フクロウが板の間に座り込んでいた。膝の上にはあの黒猫が丸くなって喉を鳴らし、フクロウの手元では木炭の削り粉がさらさらと音を立てていた。
「何を描いてるんですか?」
カグラマが柱に寄りかかりながら覗き込む。
フクロウは無言で帳面を向けた。
黒猫だった。だが、ただの素描ではない。骨ばった背中の丸み、欠けた耳の傷跡、そして深く閉じられた瞼――紙の上で今にも小さな胸を上下させそうなほど、穏やかな生命がそこに息づいていた。
カグラマはしばらく黙ってその絵を見つめていた。
「どこでそんな描き方を?」
「お袋だ」
フクロウのいつもの気だるい声が、少しだけ低く沈んだ。
「手はな、記憶が失うのを怖がってるもんを描くんだとさ」
フクロウは木炭で頁をめくり、新しい白紙を出した。
「親父さんはどんな顔だ。言ってみろ」
カグラマの背筋が、ぴくりと跳ねた。
少年は柱に額を預け、泥に汚れた自分の膝を見つめた。喉の奥が引き攣る。
「父さんは……王都の医者です。じっとしていられない人で。樟脳と苦い薬草の匂いが染みついた白外套を着ていて……」
カグラマは眉根を寄せ、必死に記憶を手繰り寄せた。
「学生時代の喧嘩で、鼻筋が左に少し曲がってます。右目は左目より少し細くて……患者の傷を縫い合わせるために徹夜ばかりするから、いつも目の下に赤黒い隈がありました」
フクロウは余計な相槌を打たず、木炭を走らせた。乾いた紙を削る音だけが縁側に響く。角張った顎、眉間の頑固そうな皺、曲がった鼻梁。
首筋の影を書き加えている時、膝の上の黒猫が寝返りを打ち、フクロウの肘を押し上げた。木炭が耳の横へピッと黒い線を走らせてしまう。
フクロウは消しゴムも使わず、ただ煤をフッと息で吹き飛ばし、紙を引き裂いて後ろへ放り投げた。
カグラマは慌ててその紙を掴み取った。
少年は紙を見つめたまま、微動だにしなかった。涙をボロボロ流して感動するようなことはしない。むしろ、眉を厳しく寄せ、痛々しいほどの険しい目で線の一本一本を睨みつけていた。
「眉毛が吊り上がりすぎてます」
カグラマはフクロウを見ずに、掠れた声で言った。
「父さんはこんなに気難しそうじゃない。まるで寺の頑固坊主みたいだ」
「お前の口から出た通りに描いたんだよ」
フクロウは川へ視線を戻し、鼻を鳴らした。
「聖人君子みたいに言うからそうなる。愛想のない顔だったんなら、お前の説明不足だ」
カグラマは親指で紙の端を擦り、押し黙った。
「……でも。耳の先の欠けがある。僕、言わなかったのに……昔、馬から落ちて耳を切った傷の場所に、線が入ってる」
「猫が肘を押したんだよ」
フクロウは皮肉っぽく口元を歪めた。
「猫に礼でも言いな」
カグラマは震える息を吐き出した。意固地な鎧が、一瞬だけ剥がれ落ちる。
少年は紙を四つに丁寧に折り畳むと、合羽の胸元の最も深いポケットへと押し込んだ。
「下手くそな素描ですね」
少年は袖で鼻先を擦りながら、小さく呟いた。
「……でも、ありがとうございます」
「はいはい。風上に立つな、猫が寒がるだろ」
夜は静かに更けた。二人は冷え切った汁の残りを口にすることもなく、床に就いた。
フクロウの狭い部屋には、黒猫が入り込んできて、枕元の刀の鞘の上に顎を乗せて寝息を立てていた。
***
未明、黒い霜が降りた。
午前四時半。空気がガラスの破片のように冷たく、吸い込むだけで肺が痛んだ。
フクロウは深い眠りの中にいたが、脳髄の奥で生存本能が警鐘を鳴らした。刀の上にいた黒猫が、恐怖に喉を鳴らしながら引き戸の隙間へと滑り出る。
目を開ける暇すらなかった。
ドォォォォンッ!!
枕元の土壁と窓が、強烈な破砕音とともに内側へ向かって弾け飛んだ。
神社の大黒柱ほどもある樫の丸太が、水平に部屋を薙ぎ払ったのだ。衝撃が藁布団と床板を根こそぎ粉砕し、凄まじい風圧がフクロウの身体を吹き飛ばした。
反対側の壁に背中を打ち付けられ、そのまま空いた大穴から外の闇へと放り出される。
ガラガラと崩れる斜面の砂利の上に、無様に背中から叩きつけられた。
眼鏡を落とすような間抜けな真似はしなかった。眼鏡はシャツの胸ポケットに折り畳んでしまってあった。だが、冷え切った河原の岩場が仇となった。泥で強張ったブーツの底が、薄氷の張った苔に滑り、左肘をしこたま尖った川石に打ち付けた。
ジーンと激痛が走り、肘から先が一瞬麻痺する。
「クソッ……!」
悪態をつきながらも、右手だけは反射で掴み取った刀の柄を離さなかった。
顔を上げた瞬間、寒気が喉を凍りつかせた。
砕け散った小屋の背後にそびえ立っていたのは、これまで見たこともない異形の影だった。
巨大。炭焼き窯のように分厚い肩幅に、硬く引き締まった褐色の筋肉。そしてその頭部には、夜霧を引き裂くようにして、凶悪な鹿の巨角が天を衝いていた。怪物の右手には、先ほど小屋を粉砕した樫の丸太が握られている。
グオオオォォォン……!
空気が震えるような地響きの唸り声。丸太が再び持ち上がった。
フクロウは刀を抜こうと身を引いたが、痺れた左肘がもつれ、薄氷を踏み割って川の浅瀬に尻餅をついた。太腿まで冷水が染み込む。
ドスゥゥゥンッ!
丸太が叩きつけられた河原が爆発し、砕けた川石と泥水がフクロウの顔面を容赦なく叩いた。
刀を一気に引き抜く。
(クソが、心臓が動かねぇ……! この冷水の中で無理に脈を跳ね上げたら、腕の血管が弾け飛ぶぞ!)
胸を殴って心臓を起こす時間すらない。
その時、小屋の濡れ縁の戸がガタガタと悲鳴を上げた。
「フクロウさんッ!?」
カグラマが転がり出てきた。
腰に薄い毛布を腰巻のように巻きつけ、右手にカンテラ、左手には錆びた料理用の小刀を必死に構えている。滑稽で、哀れな姿だった。
鹿角の鬼神が、ぴたりと丸太を止めた。
巨頭が、光の元へとゆっくり巡る。盲目の白眼が、カンテラの光を吸い込んだ。喉の奥から殺気が漏れ出し、怪物の膝が沈み込む。少年ごと縁側を粉砕する跳躍の予備動作。
フクロウは痺れた肘の痛みをねじ伏せ、浅瀬を蹴った。
「跳べ、バカ野郎ッ!!」
脈の同調など間に合わない。生身の刀で丸太を受ける覚悟で、フクロウは少年の前へ割り込もうと身体を投げ出した。
だが――激突の音は響かなかった。
怪物が宙を舞い、カンテラの黄色い光がカグラマの青ざめた顔を真正面から照らし抜いた――その刹那。
鹿角の鬼神が、空中でピタリと硬直した。
ヒュッ、と怪物の喉から空気が抜けるような音が漏れた。それは獣の咆哮ではなく、まるで悪夢から跳ね起きた人間の、引き攣ったしゃくりのようだった。
怪物の巨体が、自らの着地を力任せに捻じ曲げた。
ザザザァッ!!
十メートル以上離れた川岸の泥濘へと不恰好に墜落した。樫の丸太を取り落とし、足をもつれさせながら、怪物はまるで恐怖に駆られた獣のように、木立の闇の中へと一目散に逃げ去っていった。
枝をへし折る音が遠ざかり、やがて川のせせらぎだけが耳に残った。
フクロウは河原に片膝をついたまま、刀を構えて動かなかった。吐き出す息が白い塊となって霧に溶ける。
追撃はない。闇は完全に沈黙していた。
「フクロウさん……」
濡れ縁から、カグラマの震える声が落ちてきた。小刀を構えたまま、カンテラから灯油の焦げた臭いが漂っている。
「逃げ……たんですか……?」
フクロウはゆっくりと立ち上がった。左肘が鈍く脈打っている。刀身の雫を濡れたズボンで拭い、チャキンと納刀した。
怪物が着地した泥濘へと、静かに歩み寄る。
泥の中に、怪物の蹄のような深い足跡が二つ。その窪みの脇に、鈍く光る小さな金属片が落ちていた。
フクロウは身を屈め、泥まみれのそれを拾い上げた。
真鍮の小箱だった。怪物の鉤爪で押されたのか少し歪んでおり、錆びた留め金がついている。耳元で軽く振ると、カチカチと細い縫合針や小さな刃物がぶつかり合う乾いた音がした。
掌の中の小箱から漂ってくるのは、泥の匂いだけではなかった。
微かに、だが確実に――干からびた樟脳の匂いが残っていた。
フクロウは小箱を握りしめた。
濡れ縁から毛布を引きずりながら、顔を真っ白にして降りてくるカグラマを横目で見る。
フクロウは小箱を無言で自分の深いズボンのポケットへと滑り込ませた。少年には見せなかった。
「おい、坊っちゃん」
フクロウの声は低く、乾いていた。
「な、なんですか……」
フクロウは足元の割れた板切れを川へ蹴り飛ばした。木片が白波に揉まれ、夜の闇へと流されていく。
「荷物をまとめろ。壁が吹き飛んだ小屋で寝る奴はいねぇよ。……歩くぞ」
再び投稿できて嬉しいです!今回の第2章は作者自身も書いていてとても楽しかったのですが、皆様にも楽しんでいただけたなら幸いです。
【お知らせ】
以前の読み切り(ワンショット)版を、公式の「第1章」として完全にリメイクしました!まだの方は、ぜひそちらも読んでみてください!!!
もしよろしければ、下にある星(★★★★★)からの評価や、第1章・第2章への感想・コメントをお待ちしています!厳しいご意見やアドバイスも喜んで受け止めますので、ぜひ聞かせてください!!
それでは、素晴らしい金曜日をお過ごしください!!
次回は明日の夜、19時45分にお会いしましょう!!!




