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俺は、自分の血が燃えるまで、自分の手首を締めつけなければならない『残響の追憶』  作者: Fuuji


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第一章:泥濘と鼓動

初めまして!読んでいただきありがとうございます。ダークファンタジーの読み切りです。楽しんでいただけたら嬉しいです!

# 第一章:泥濘と鼓動


黒谷国の北、白香村の夜には星ひとつなかった。

岩肌と剥き出しの土がどこまでも続く、ただの濡れた暗闇。松明を掲げたところで、自分の吐く白い息が照らされるだけだ。


雨が降っていた。

大粒で、重い。肌をパチパチと叩くような氷雨だ。

風が吹きつけるたびに、粗末な木造小屋の壁が小石でも投げつけられたように乾いた音を立てる。


暖炉の前で、フクロウは微動だにしなかった。


板張りの床にあぐらをかき、膝の上に古びた帳面を乗せている。

赤く爆ぜる熾火(おきび)で体の右半分は汗ばむほど熱いのに、隙間風が吹き込む左半分は氷水に漬かっているように冷たい。窓枠の隅では、何週間も主のいない干からびた蜘蛛の巣が風に揺れていた。

カサ、カサと、紙の上で木炭の削り粉が擦れる音だけが響く。描いているのは、もうこの世にいない誰かの顔だ。


いつもの顔つきだった。

重たげに垂れた瞼に、締まりのない顎。今起きたばかりなのか、これから寝るのか、誰にも分からないような気だるい表情。


バサッ、と窓枠に何かが落ちてきた。


烏だった。

羽毛は泥水でべったりと固まり、まるで濡れ雑巾だ。そいつが勢いよく翼を羽ばたかせたせいで、フクロウの描きかけの紙に濁った飛沫が飛び散った。


フクロウは顔も上げず、ただ木炭を止めた。


「おい。汚すなよ」


烏の足には、細い紐で黒い革包みが括りつけられていた。安物の革で、水滴がぽたぽた垂れている。中身は折り畳まれた紙切れが一枚。


「……仕事じゃねぇだろうな」


半ばうんざりし、半ばすがるような声で呟く。


「頼むから金になる話であってくれ。奥の部屋で寝てる連中の分も合わせて、明日の米がありゃしねぇんだからよ」


結び目を歯で噛みちぎる。

用済みの烏は勝手に窓から飛び降り、暖炉の温もりをめがけて床をとことこと歩き出し、灰の近くに落ちていた木片を突き始めた。


「おい、図々しい鳥だな。そこに居座るなら宿代置いてけよ」


烏は知らん顔を決め込んでいる。

フクロウは濡れた紙を広げ、暖炉の火に透かして細い墨文字を追った。


『カグラマと申します。峠の向こうの村まで護衛を頼みたい。所用で出かけた父が、期日を過ぎても戻りません。探しに行きます。三日三晩。報酬は一日につき六百キス。トノス宿場の外れ、王都へ続く街道の交易所で待っています』


フクロウは紙を見つめたまま固まった。

報酬の数字を三度読み返す。


「……一日、六百……?」


首の後ろをがりがりと掻いた。背筋にざわりと鳥肌が立つ。


「どこのお坊ちゃんだか知らねぇが、頭のネジが何本か抜けてやがるな。だが……六百キスがありゃ、悪魔の護衛だって受けるしかねぇだろ」


腰を上げた。

暖炉から三枚目の床板を踏まないように大股で避ける――そこを踏むと酷い軋み音が鳴るからだ。奥の引き戸の前に立ち、木炭の欠片で殴り書きを残す。

『三日の仕事だ。生きて帰る。明日までの米はある』


土間の掛け釘を見た。

昼の獲物捕りでずぶ濡れになった厚手の外套が、縄にぶら下がったままだった。濡れた獣の匂いをぷんぷんさせている。とても着られた代物じゃない。


「ちっ……」


乾くのを待つ時間はない。

フクロウは仕方なく、下ろしたての白いワイシャツを羽織り、首元に細い黒ネクタイを雑に結んだ。極貧の暮らしになっても手放せない、昔の癖だった。

刀の帯を腰に巻き、厚手の裏地が入った袴に足を通す。足回りだけは防寒が効いているが、上半身は濡れれば終わりだ。


古いブーツで熾火を踏み消し、軋む扉を開けた。

吹き込んできた突風が、脇に挟んだ帳面を力任せに奪い取ろうとした。


***


泥の中を歩くのは最悪だ。


歩き始めて四十分。すでに左足の革が裂け、歩くたびに『グチャ、グチャ』と嫌な音が鳴り響いていた。靴下はとっくに泥水を吸って氷のように重い。

道の脇の朽ちかけた木柵に、灰色のボロ布の切れ端が錆びた釘に引っかかって揺れていた。何年も前の、誰かの着古した服の成れの果てだろう。


「……冗談じゃねぇぞ、くそったれ」


独り言を吐き出すと、ガチガチと歯が鳴った。

空気がおかしい。寒い。ただの冬の寒さじゃない。一歩進むごとに、周りの熱が剥ぎ取られていくような感覚だ。


フクロウは濡れたシャツの上から胸を押さえた。

心臓が、水を吸いすぎた古新聞みたいに重い。

ドクン、と鈍く打ってから、次の鼓動までが長すぎる。


「おい、動けよ……温まれってんだ」


自分の胸を掌で小突く。

生まれつき、血の巡りが遅くて冷たい。こんな凍りついた身体のままじゃ、もし途中で『奴ら』に遭遇しても刀すら抜けずに終わる。

それにしても、このカグラマとかいうガキは何者だ。夜中の二時に、この土砂降りの中で待ち合わせだと? 命が惜しくないのか。


坂道を下ると、泥煙の向こうに交易所が見えてきた。

荷馬車を待つための、板切れを組んだだけの吹き曝しの待合所だ。奥の納屋には錆びた南京錠がかかっている。


フクロウは軒下に滑り込んだ。

眼鏡のレンズに水滴がびっしりと張り付いている。シャツの袖で拭おうとしたが、袖自体がびしょ濡れで、かえって視界が白く濁った。


舌打ちして、歪んだ眼鏡を掛け直す。


「……誰かいるか」


暗がりの中で、カンテラの灯りが揺れた。

ピチャリ、と水たまりを踏む音。

光の中から現れたのは、手紙の筆跡から想像していたよりもずっと若い男だった。二十歳そこそこ。泥ひとつついていない上等な雨合羽に、短く切り揃えられた金髪。育ちの良さが隠せていない。


青年はカンテラを持ち上げ、フクロウをしげしげと見上げた。


一目で分かる、不釣り合いな光景だった。

身綺麗な依頼人の前に立っているのは、泥まみれの袴を穿き、濡れたシャツを肋骨に張り付かせた百九十近い大男だ。おまけにネクタイは曲がり、目は死んだ魚のように据わっている。


「あなたが……案内人ですか?」

青年の声が少し上ずった。


「フクロウだ。あんたが金を払うカグラマか」


「そうです」


「夜道は慣れてるか?」

フクロウは口の中に入った雨水を吐き捨てた。

「慣れてねぇなら言っとくぞ。俺から絶対に離れるな。走るな、騒ぐな、余計な真似はするな。俺が伏せろと言ったら、泥の中に顔を突っ込め。いいな?」


カグラマは唾を飲み込んだ。カンテラの鉄の持ち手を握る指が微かに震えていたが、視線は逸らさなかった。


「わかっています。……こんな無茶な頼みを受けてくれて、感謝します。父の足取りは、川の橋を越えた先で途絶えているんです」


「ならさっさと歩け。突っ立ってると風邪引くぞ」


***


川にかかる古い板橋は、腐った苔の匂いがした。

足元で板が軋み、濁流の轟音が靴底越しにビリビリと伝わってくる。


橋を渡り終えると、木々が一気に視界を塞いだ。

キツヤの森。

足を踏み入れた途端、外の風の音がふっと消えた。太い幹と垂れ下がった蔦に遮られたせいだが、安堵感はない。むしろ、湿った地下室に閉じ込められたような圧迫感がある。


「なあ、坊っちゃん」

フクロウは前を歩いたまま、刀の柄に手を置いて訊いた。

「親父さんは、こんな山奥に何しに来たんだ」


カグラマは二、三歩、間を置いてから口を開いた。


「商売です。半年に一度、買い付けに出るんですが……いつもなら途中の村から便りがあるのに、もう一ヶ月も音沙汰がなくて。母さんも、夜も眠れずに泣いていて。父さんは……帰る時、いつも王都の甘露煮を買ってきてくれてたんです」


青年はそこで不意に言葉を切った。咳払いをひとつして、喋りすぎたのを誤魔化すように首を振る。


「……いや、くだらないですね。すみません。周りはみんな諦めろって言いました。野盗に殺されたか、もうどこかで野垂れ死んでるって。でも……荷車に乗せられて帰ってくるのを待つなんて、僕にはできません。あなたなら、じっと待っていられますか?」


フクロウは足を止めなかった。濡れた枝が肩を叩き、首筋に冷たい水が垂れる。


「待たねぇよ……いや、知らねぇな。俺の知ったこっちゃねぇ」

独り言のように吐き捨ててから、フクロウは少しだけ声を低くした。

「だが……家族のためなら、血くらい流すだろ」


胸元を軽く叩く。帳面がそこにある感触を確かめるように。


「俺がこの紙切れを持ち歩いてるのも、同じようなもんだ。死んだ奴らの顔を描いて、遺族に配って歩いてる。半年も経てば、残された奴らは死んだ親の顎の形すら忘れちまうからな。『持っていれば畑が豊作になる』なんて嘘八百並べて押し付けてるが……まあ、俺がまだくたばらずに歩いてる理由なんざ、そんなもんさ」


カグラマが驚いたようにフクロウの横顔を見た。何か言いかけたが、唇を噛んで飲み込んだ。


だが、話はそこまでだった。


空気が変わった。

胃袋を直接掴まれたような悪臭。

錆びた釘と、腐りかけの生肉の混ざった匂いだ。


葉先から垂れる雨粒の落ち方が、目に見えて遅くなっていた。

森全体が、ドロリとした飴細工の中に沈んでいくように重い。


「フクロウさん……」

カグラマが声を潜め、カンテラを胸元に引き寄せた。声が恐怖で微かに裏返っている。

「この匂い……」


「黙って止まれ」

フクロウの声から、完全にだるさが消えていた。瞳が極限まで細くなり、周囲の闇を舐める。

「指を組め。『狐』だ。早くしろ」


カグラマが即座に反応した。

親指と薬指の先を合わせ、人差し指と小指を立てて狐の頭を形作る。その指の隙間から、木々の隙間を覗き込んだ。


――いた。


十メートルほど先の太い枝の上。

何かがぶら下がっていた。


灰色の、異常に痩せこけた体。肋骨が浮き出た皮膚は死人のように白い。

腕は異様に長く、片方の足はもう片方の倍近く太く歪んでいる。鼻も耳もない顔面に、白濁した二つの目玉がギョロギョロと意味もなく動いていた。


鬼神(きしん)。


目は見えていない。だが、平たい鼻腔が肉の匂いを嗅ぎつけ、ヒクヒクと湿った音を立てている。


「……枝の、上に……」

カグラマが息を殺して囁く。


「目を離すな! 俺の目になれ、坊っちゃん!」


フクロウが手首の脈に指を当てようとした、その瞬間だった。

バキィンッ! と濡れた大木がへし折れ、腐った小麦粉の袋を叩きつけたような鈍い音を立てて、頭上から塊が降ってきた。


「右! 右に来ますッ!!」

カグラマがパニック交じりに絶叫した。


フクロウは反射的に右へ身を跳ばした――だが、怪物は空中で幹を蹴り、逆側から跳ね返ってきた。指示が逆だった。


「右じゃねぇだろクソガキがッ!」


フクロウの怒声と同時に、丸太のような質量が胸板を直撃した。

巨体が宙を舞い、数百年ものの樹皮に背中から激突する。肺の中の空気が強制的に吐き出され、眼鏡が闇の中へと弾け飛んだ。


そのまま泥水の中へ顔から叩きつけられる。


口の中に泥が飛び込んできた。鉄と血の味が混ざり合い、奥歯の間でジャリッと砂が軋む。

眼鏡を失った世界は、輪郭のない灰色の泥絵だった。

泥水の中で顔を埋めながら、フクロウの頭に場違いで間抜けな焦りが過った。

(……クソが。胸の帳面……水が入ってあの三番村のババアの絵が滲んだら、また描き直しじゃねぇか。あいつの鼻の形、もうよく覚えてねぇのに……)


「フクロウさん! 立って! 真上ですッ!!」


風を裂く音だけを頼りに、泥まみれになりながらがむしゃらに横へ転がった。


ドスゥンッ!


一瞬前まで頭があった場所に、太い爪が深々と突き刺さり、泥を跳ね上げる。

転がった右手が木の根に引っかかり、指先を鋭く切った。その先で、冷たい金属の感触に触れた。眼鏡だ。泥を掌で乱暴にぬぐい、耳に引っ掛ける。


視界が戻った。だが、身体が動かない。

心臓が……まだ冬眠から醒めない蛇のように、のろのろと脈打っているだけだった。


「動けよ、この出来損ないが……!」

フクロウは左拳を握り固め、自分の胸骨の真ん中を力任せに殴りつけた。


ドゴッ!


鈍い痛みが走り、胸の奥で火が跳ねた。

――ドクン。

力強い鼓動が一つ。そして、もう一つ。


鬼神が身を屈め、黒い爪を喉首めがけて振り下ろす。

フクロウは両手で刀を跳ね上げた。金属と爪が激突し、焦げた獣の脂の匂いとともに青い火花が散る。


泥に足を取られながら爪の連撃を弾き続けたが、斜めから跳び込んできた爪の先が、フクロウの首筋を浅く切り裂いた。


ジュッと皮膚が裂け、熱い血が襟元に吹き出す。


迷う暇はなかった。

フクロウは左手の人差し指と中指を首の傷口にねじ込み、溢れる血を刃の根元に擦り付けた。


ビィィィィィィィンッ!


刀身が痙攣するように震え、甲高い金属音を撒き散らす。手の中で暴れる刃は、削岩機そのものだった。それで十分だった。

血の波長が怪物の粘つく気配と完全に噛み合う。


「タダで食えると思ってんじゃねぇぞ、腐れ乳野郎!」


もはや視覚など必要ない。

下からの鋭い斬り上げ。超振動の刃が鬼神の両足を腐った竹のように両断し、怪物が宙に浮いて豚のような悲鳴を上げる。


フクロウは腰を落とし、熱を帯びた刀の背に指を滑らせた。


「――第一節。『不調和(ディスアライン)』」


世界が音を失った。


雨が空中で停止する。宙に浮いた水滴がガラス玉のように留まり、両足を失った鬼神もまた、口を開けたまま静止した。


無音の空間を、フクロウは静かに二歩進んだ。

怪物の剥き出しの喉笛の前で立ち止まり、刀を突き入れる。


耳障りな不協和音が肉を裂いた。


ズシュゥッ。


怪物の頭部が胴体から千切れ飛んだ。


直後――ザァァァァッ! と時間が動き出す。

溜まっていた雨が一斉に木々を叩きつけ、首を失った怪物の胴体が泥の中に重く崩れ落ちた。

刀の唸りが消え、ただの冷たい鉄に戻る。


フクロウはその場に立ち尽くし、白い息を吐き出した。

ふと見ると、激闘の中でワイシャツの左袖のボタンが吹き飛んでおり、濡れたカフスが手首の骨にペチペチと冷たく張り付いていた。

口の中に残っていた泥をペッと吐き捨て、泥の中で溶けていく残骸を見下ろす。


「これだから、飯はちゃんと食って水も飲まねぇと駄目なんだよ。こんな不細工な身体になりたくねぇだろ」


刀を腕の内側で拭って鞘に納めた。


「おい、坊っちゃん。終わったぞ」


巨木の根元から、カグラマがふらふらと這い出てきた。

両膝がガタガタとぶつかり合うほど震えており、カンテラを持ち上げようとした拍子に蓋が外れ、臭い油が合羽の袖にこぼれた。熱くなった火屋(ほや)に親指を触れそうになり、情けない悲鳴を漏らす。


「……勝った、んですか……」

青年の声は寒さと恐怖でかすれていた。

「首を撥ね飛ばされたかと思いました」


「死にかけたよ。だいたいお前、方向感覚が腐ってんじゃねぇのか」

フクロウは首の傷を押さえ、痛みに顔を歪めた。

「それより、なんであんなに気配を消せたんだ」


「脈を……落としたんです」

カグラマは冷え切った自分の手首を押さえた。

「鼓動をほぼゼロまで止めました。波長を消せば、ただの泥の塊に見えるはずですから」


フクロウは呆れたように息を吐いた。


「へぇ……お坊ちゃん、えげつねぇ小細工を知ってんだな。昔、借金取りから逃げる時に一度真似したが……死にかけて懲りたぜ」


フクロウはシャツの胸元に手を突っ込み、帳面を取り出した。

革の表紙の端と、中の紙が泥水を吸って茶色く滲んでいた。


「……クソが」

小声で毒づき、泥のついた親指で紙の端を悔しそうに擦る。


カグラマは二、三歩よろめきながら近づき、激しく歯を鳴らした。


「フクロウさん……あの……どこかで火を起こせませんか? 指の感覚がなくて……」


フクロウは汚れた帳面を胸元にしまい込み、曲がったネクタイを乱暴に引っ張ると、青年に背を向けて泥道を歩き出した。


「黙って歩け」

者より /


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!

実は私、ブラジル在住の作者です。日本の漫画やライトノベルが大好きで、今回情熱を込めてこの作品を書き上げました。


もし「面白い!」「フクロの戦闘シーンが格好良い!」と思っていただけたら、ぜひページ下部の評価(★★★★★)やブックマーク登録をしていただけると、今後の執筆の大きな励みになります!


感想も日本語で大歓迎です。よろしくお願いします!

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